歴史・考古学

2009年8月 2日 (日)

「海のエジプト展」

ワタクシ、古代エジプト文明が好きである。

小学生の頃には本気で考古学者になりたい!と思ったほどである。
で、その頃買ったツタンカーメンの遺跡発掘の本は宝物でもあった。

月日は流れ、今は生活に追われエジプトは忘却の彼方である。
しかし、いつかはエジプトはルクソールや王家の谷に行ってみたいと思っていたが、
その想いはいまだに叶っていない。

そして、今年、「海底からよみがえる、古代都市アレクサンドリアの至宝」
というサブタイトルで「海のエジプト展」が開催された。
これは見なければイケナイ!ということで本日会場であるパシフィコ横浜に赴く。

http://umieji.jp/
http://www.asahi.com/egypt/works.html

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長い期間に亘り引き揚げられた古代エジプトの遺産の数々が展示されていた。
特に圧巻だたのは“デカンの祠堂”と“ネクタネポ1世のステラ”である。

共にヒエログリフが綺麗に残っており、これが遥かなる時空を隔てて見る者の心に訴えかけてくる何かがある。

そしてエジプトの神「アメン」とローマ神話の「ゼウス」は同一視されている、ということを初めて知った。
これって、日本の仏教と神道における大日如来と天照大神が同一視されているのと同じである。
やはり、信仰心には共通する“神”が引き継がれていくのかもしれないなぁ・・・と
あらためて認識した次第。

ところで“ツタンカーメン”とは厳密にはトゥト・アンク・アメン(アメン神の生きる似姿という意味)と表記、言われている。

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で、この展覧会に最大の“目玉”はエジプト最後のファラオであるクレオパトラが愛した都アレクサンドリアの沖合から引き上げられた遺物である。
おりしも本日NHKで「クレオパトラ 妹の墓が語る悲劇 」が放映された。

時代に生き、そして翻弄されていった“クレオパトラ”に想いを馳せた今日この頃である。

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2009年7月18日 (土)

国立博物館 特別展「伊勢神宮と神々の美術」

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古来、日本の神々は自然の中に宿っていた。
大岩であり、大樹であり、山であった。そして、火、雨、風、雷などといった自然現象の中にも神々しい「何か」が宿っていたと考えられていた。

で、神道が体系作られていく際にこれらは「八百万(やおよろず)の神」と言われるようになった。
この神道が体系作られていく際に明文化されたのが日本書紀であり、古事記である。

まぁ、この日本書紀も古事記も、日本神話の伝承であり、特に高天原から天降った神の子孫が「天皇」である、ということを大義名分化したものでなかろうか?(かなり乱暴な私的定義だが・・・)

そして、日本神話に想いを馳せると「伊勢神宮」と「出雲大社」が思い浮かぶ。
この「伊勢神宮」と「出雲大社」の違いは何ぞや?
この“違い”をハッキリ説明できる日本人も少ないかもしれない。
かくゆうワタクシもこの“違い”を最近知った次第。

日本書紀や古事記によれば、天皇家の粗祖先とされる天照大神を祭ったのが伊勢神宮で、天照大神の子孫に国土を譲った(戦に敗れ国土を取られた)大国主命を祭ったのが、出雲大社ということになる。

この天皇家は、もとは地方の一部族であり、武力により他部族を征服し大和朝廷を建てたという歴史があり、日本書紀や古事記は天皇を神の子孫としてこれを正当化・明文化したものなのである。(かなり乱暴な私的定義です)

明治時代には「伊勢神宮」は天皇家の先祖を祭った神社ということで、国家神道の名の下に全国の神社を系列化に置いていったのである。

で、話はこの「伊勢神宮」の式年遷宮に移る。
伊勢神宮では、飛鳥時代から20年に一度、正殿(しょうでん)をはじめ、御装束(おんしょうぞく)、神宝(しんぽう)を造り替えて、御神体を新しい宮殿に遷す「式年遷宮( しきねん せんぐう)が行なわれる。

何ゆえに20年に一度なのか?まず、第一に社殿の清浄さを保つためである。
そして伊勢神宮の掘立柱建物である建物としての耐用年数によるものであり、他に建築技術の伝承、伝統工芸の伝承などの意味があるとされる。

来る平成25年に第62回の式年遷宮が行わるのを記念して、国立博物館で特別展「伊勢神宮と神々の美術」と銘打って神宝をはじめ、古事記や日本書記などの古文書や、考古遺物、彫刻、工芸品などが展示されている。
これは実にキョーミ深いということで上野は国立博物館まで赴く。

見どころは「伊勢参詣曼陀羅」でこれが色鮮やかで見ていて飽きない。
参詣曼陀羅とは、中世から近世にかけて造られた社寺の縁起や霊験譚を霊場へ参詣する人々の様子とともに描いた絵画。

そして昭和4年に調進された「玉纏御太刀(たままきのおんたち)」はオドロキの名品である。
琥珀、瑪瑙(めのう)、水晶、瑠璃と五色の吹玉(ガラス玉)で装飾され、持ち手には10個の鈴が付けられた飾り太刀で、人間国宝といわれるお方達の手によって造られており、奉納される60柄の太刀の中でも屈指の華麗さだという。
これらの神宝は神様が使っていた畏れ多いものとして、一般庶民の目に触れぬように土の中に埋められていった。
この「掘り出し物?」の神宝も一部展示されたいた。

その後は「本館 日本ギャラリー」や「法隆寺宝物館」などを見て歩く。
日本の歴史や伝統工芸、美に触れた有意義な一日である。

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2009年7月16日 (木)

横浜開港資料館の「たまくす」

横浜開港資料館の「たまくす」

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1854(嘉永7)年にペリーが来航したが、横浜に上陸したのがこの横浜開港資料館あたりだという。

横浜開港資料館の中庭に大きな木がある。
通称「たまくす」と呼ばれていてタブノキである。

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この「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、ペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」の右側に見てとれるのが「たまくす」である。

で、この1866(慶応2)年の大火によって、「たまくす」は樹形が変わるほど焼失し、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で、「たまくす」はふたたび大きな被害を受けるが、その生命力は尽きることがなかった。
1930(昭和5)年6月、領事館の敷地内に約10メートほど現在ある位置に移植された。

この「たまくす」つまりタブノキは災害には強いのである。
以前、宮脇 昭氏の講演著書の中でも述べているが、シイ、タブ、カシの木は昔から天災や災害に強いことで知られていて、鎮守の森として神社を守ってきた事実がある。

そして、この「たまくす」は横浜の歴史を見守ってきたのである。
で、Y150のマスコットキャラクター、「たねまる」はこの「たまくす」がモチーフとなっている次第。
(下半身はフネで上半身が「たまくす」の精というデザインである)

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2009年7月 7日 (火)

赤坂探索「清水谷公園と大久保利通公哀悼碑」

赤坂見附駅で降りて、弁慶橋から、ホテル・ニューオータニ前の紀尾井町通りの緑豊かな並木道を北上するとまもなく右手に清水谷公園が見えてくる。

江戸時代、江戸には湧水がほとんどなかったが、珍しくこの付近には泉があり、通行人に喜ばれていたという。尾張屋版江戸切絵図にも、シミズダニとの名称が記されていた。

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この公園の東端には、「贈右大臣大久保公哀悼碑」と刻まれた立派な石碑が建っている。 

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明治十一年(1878)五月十四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺された。。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えた。

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更に公園の左奥には「偕香苑」と呼ばれる茶室のような建物が建っている。

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公園の中にある池の辺は気持ちの良いアウトドア・ランチ・スポットでもある。

大久保利通公の孫は吉田茂である。ということは今時の人である「麻生太郎」総理大臣は玄孫にあたるワケである。大久保利通公は強力な独裁をおこなったが、身辺は清廉潔白で、藩閥にも拘泥しなかったという。
少しは見習って欲しい、と思うのはワタシだけ・・・・

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2009年7月 5日 (日)

本覚寺 (鎌倉市)

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今から27年前に親友が不慮の事故で亡くなった。
菩提寺は鎌倉の本覚寺であり、毎年命日近くの7月の初旬の日曜日に仲間が集まり墓参りするのが恒例となっている。

で、本日がその日でかつての同級生が集まるのでつかの間の同窓会ともなり、墓参りの後に一献を傾けるのも毎年の恒例でもある。

で、この本覚寺だが、元々は幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守としての守護神を祀っていた天台宗の夷堂があり、ここに配流地の佐渡から鎌倉へもとった日蓮が滞在し、この夷堂跡を一乗院日出が1436(永亨8)年に日蓮宗に改め創建したのがはじまりだという。
その後、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。これが本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由である。

夷(えびす)堂があったことから鎌倉七福神の一つとして有名で、商売繁盛の神えびす様のお祭の<鎌倉えびす>は、お正月(元旦~3日)、9日の宵まつり、そして10日の「本えびす」を迎え最高潮の賑わいになる。

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2009年4月22日 (水)

向井将監正方夫妻の墓

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横須賀は大津の高台にある住宅地の一角に向井将監正方夫妻の墓がある。

この向井家は南北朝時代から知られる水軍の長で、代々に渡り左近衛将監と舟手奉行を世襲し、「向井将監」の名を継いで江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めたのである。

で、この正方は、向井忠勝の五男で、父に代わって寛永15年(1638)に幕府の船奉行を務め、百余名の同心を預けられて江戸湾の警固を担当した。

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   墓の前方には東京湾が広がる

正方は、延宝二年(1674)に亡くなるが、墓所は江戸を見渡せる場所がよいと望んでいたので、江戸湾を見下ろす竹林山貞昌寺の裏山に、妻の墓碑と並んで置かれた。

この墓は平成13年に住宅地の造成のため往時の場所から約20m移転している。

海に囲まれている三浦半島、三浦水軍をはじめ海にゆかりのある歴史が残っているのである。

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2009年1月 4日 (日)

手斧始式

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今日は鎌倉は鶴岡八幡宮で「手斧始式」(ちょうなはじめしき)という神事が執り行われた。

元々は源頼朝が現在の地に八幡宮を建てた時に、造営事始の名の下に手斧始めの神事を行なったのが始まりで、今では八幡宮で行なう年中の営繕の行事始めであるとともに鎌倉全市の工事始めとして、毎年1月4日鎌倉在住の建築業者によって挙行されている。

古来より大工道具の三種の神器とされてきた差し金(サシガネ)あるいは曲尺、手斧・釿(チョウナ)、墨壷(スミツボ)を主役に鋸、槍かんな、などの道具を使い古式ゆかしい大工職人の仕事を再現している。

これらの道具の中で手斧・釿と槍かんなは今では使われることはほとんどないだろう。
宮大工の仕事で使うことはあっても今では電動工具が主役である。

で、この手斧・釿は主に柱や梁など用材の荒削道具として使われてきたのだが、大工道具の生きた化石ともいわれ、古墳時代の鉄製の出土物にも見られる道具なのである。西暦紀元頃の登呂の遺跡の木製遺物にも釿で加工したような痕が残っているという。

何はともあれ古式ゆかしい儀式を見て、悠久の時を超え古代の造営に思いを馳せた今日この頃である。

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2008年11月30日 (日)

酉の市-妙見大菩薩と熊手を想う

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            鷲に乗った妙見菩薩

        昨日からの続き
大鷲神社で熊手?鷲と熊はどう関係するのか?

酉の市は明治時代までは大らかな庶民の祭りだったと想像できる。
しかし、明治政府の神仏分離令により神社と寺を無理やり分離してしまった。
(明治時代までは神仏習合といい、仏と神を折衷して、一つの信仰体系としていたのである)
これにより今までに我々の祖先が育ててきた大らかな神話的思考が壊されて、今までの行なってきた祭りが意味不明なものになってしまったのである。

で、浅草の鷲大明神社は「鷲宮(わしのみや)」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれていたが、神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに分離されてしまったのである。

それまでの浅草の鷲大明神は妙見大菩薩(みょうけんだいぼさつ。)とも呼ばれて、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。
で、剣をかざして鷲に乗った「鷲妙見大菩薩」の頭には七つの星が表れている。
これは妙見大菩薩=北斗七星に囲まれた北極星を表しており、天空にあっても揺るぎのない星として古代神話では宇宙の秩序そのものを表している。
そして、他の鳥よりも高いところを飛んでいる鷲が宇宙の秩序を守っている北極星を乗せて地上に近づくことで太陽に地上に近づくことになる。

酉の市が行なわれる季節は一年のうちで日照時間が一番短く、太陽の力がバランスが崩れてしまうこの時期を選んで北極星の神様は地上に降臨し、宇宙のバランスを保とうとしたのだ。

で、この北極星は古代より動物の王である熊と結びつけて考えられており、北斗七星(ほくとしちせい)は、おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星でもある。

そして熊の手をシンボライズした竹の細工で人々は象徴的に富を掻き集めようとしたのであるが、
鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれている。

本来ならば北斗七星を従えた北極星と大鷲が一体となりはじめてお酉さんの祭りは意味を持つのだが、売られている熊手には鷲の飾りはない。

これは明治時代の日露戦争時に敵国であるロシアのシンボルである鷲を縁起物として飾るのはいかがなものか、ということで鷲の図柄は鷲大明神社の縁起物から消えてしまったという。

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           写真は長国寺の熊手(一部ネットからの転用)

しかし、いまだに長国寺で売られている熊手には、鷲に乗った妙見菩薩の姿が昔のまま残されているという。
来年は浅草でこの熊手を求め、遠く神話の世界に想いを馳せてみるつもりである。

(この説はアースダイバーから一部引用しています))

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2008年11月29日 (土)

諏訪神社(大鷲神社)の三の酉

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今年の(11月の)酉の市は3回ある。
「酉の日」は毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、12日おきに巡ってくる。
この日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年があるわけで、今日が「三の酉」であった。

この「酉の市」は大鷲・鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼で、大酉祭、お酉様とも呼ばれる。
酉の市で縁起物を買う風習は、関東地方特有の年中行事である。

で、この諏訪神社は信州諏訪明神をこの地に勧請したものと伝えられており、「水天宮」「稲荷神社」「大鷲神社」の三社が勧請・合祀?されている。
市内で「大鷲神社」があるのはこの諏訪神社だけなので毎年酉の市が行なわれているのである。
そして向かって左にあるのが「大鷲神社」であるが、ここを参拝している人は少なかった。

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境内は参拝する人、そして熊手を買う人で賑わっていた。
大鷲神社で熊手?鷲と熊はどう関係するのか?これには一説ありこの話は後日いたしませう。

「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説があるが、これは浅草の大鷲神社は、吉原遊廓の近くにあり、参詣の帰りに男性が吉原に寄ることが多く、月に3回も遊ばれては困る、ということから、三の酉のあるときは「火事が多い」とか「吉原遊廓に異変が起こる」という俗信を作って、男性の足を引き止めようとしたのだろうと考えられている。

このことは、
「お多福に熊手の客がひっかかり」
「そのあした熊手のオカメしがみつき」
という川柳によってもうかがわれる。

何はともあれ「火の用心」に越したことはない。

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2008年11月22日 (土)

日米親善ベース歴史ツアー、そして「ジョージ・ワシントン」

日米親善ベース歴史ツアー
このツアーは人気が高く応募してもなかなか当選しない。
ウワサでは8~10倍の当選確率だという。
ワタクシも4回目のチャレンジでやっと当選した次第。

まぁ、何も今さらベースの中を歩いても目新しいことはないかもしれないが、
一度キチンとした説明を受けてみたかったのである。

また、参加者の殆んどが市外や県外から来ていた。

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通常の一般開放では見れない1号ドライドック
慶応3年(1867)3月着工、明治4年1月に竣工
設計はフランソワ・レオンス・ヴェルニー
昭和11年(1936)に船の大型化に伴い拡張された。

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これが2号ドライドック
明治17年7月に竣工

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そして3号ドライドックは艦船修理中のため撮影は禁止
4号ドライドックは海水が満ちていた。
同行したツアーガイドによるとこれは大変珍しいという。

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で、合同演習から昨日帰還した「ジョージ・ワシントン」
接岸している12号バースは「ジョージ・ワシントン」の母港化に伴い2年かけて水深を13mから15mに浚渫作業を行なった。

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そして「サスケハナ・ドライブ」なる道がベースにはある。
ペリー来航時の旗艦が「サスケハナ」であり、第一次、第二次世界大戦時にも同名の艦が就役している。
海軍ならではの道路命名である。

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そして昭和10年代の皇后、皇太后、そして満州国皇帝であった愛新覚羅 溥儀の行啓記念碑などがひっそりと点在している。
これらを保存してくれたアメリカの大らかさは立派である。
戦時中にペリー上陸記念碑を倒して道路用の砕石にしようとした日本とはエライ違うし、ベース内にある建物も明治時代のものから大正時代のものを米軍が大事に使っている。

親子2代に亘りアメリカに縁があるワタクシにとってベースはある意味でココロの故郷でもあり、その大らかさがごく自然に感じられるのである。

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