王子・飛鳥山散策 Part2
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今日は所用のため東京は王子を訪れる。
で、王子といえば飛鳥山公園である。
この飛鳥山公園は江戸時代、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の施策の一つとして、江戸っ子たちの行楽の地とするためを桜の名所にしたのである。そして明治6年(1873年)には上野公園などと共に日本最初の公園に指定されている。
しかし、今は初秋?で天気は曇天・・・公園内には人影も少ない。
公園内には3つの博物館がある。
紙の博物館
そして王子は「洋紙発祥の地」でもあり、この場所において「日本資本主義の父」と呼ばれた明治時代の実業家・渋沢栄一の手により作られた日本最初の製紙工場があった。
で、紙の博物館があるのも当然?なのである。
渋沢史料館
その実業家・渋沢栄一の史料館があるもの当然?なのである。
そして旧渋沢庭園内には青淵文庫と晩香廬がある。
青淵文庫
青淵文庫(せいえんぶんこ)は渋沢栄一の傘寿と子爵昇爵を祝って竜門社会員から贈られた鉄筋コンクリート造2階建ての書庫である。
晩香廬
晩香廬(ばんこうろ)は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室である。
やはり飛鳥山公園は「桜」の時期に訪れるのが良いのだろうなぁ・・・と感じた今日この頃である。
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観音崎ボードウォーク
秋の気配の潮騒を確かめたくて御馴染みの「1万メートルプロムナード」をウォーキング。
秋の気配を運ぶ潮騒と海風が気持ちよい。
この時期の海岸線は祭りの後の哀愁を感じさせワタクシは好きである。
観音崎ボードウォークの木陰でビールを飲みつつ行き交う船を眺める。
まったりとした“観音崎タイム”に身を委ねて昼寝を楽しむ。
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今日は天気も良く逗子駅から葉山港までそぞろ歩く。
秋の風が吹く海岸では海の家が姿を消しつつある。
逗子に思いを寄せる階段のメッセージ。
ウッドデッキは気持ちが良い
葉山港の名所?「赤灯台」
秋を感じる風を受けながら飲むビールがウマい
海岸裏通り?に最近オープンした「シネマアミーゴ」
通常はカフェ&バーとして営業しており、夕方から映画を上映している。
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横浜はみなとみらい21(MM21)地区に日産自動車の新本社ビルが竣工間際で現在外構工事が最終段階の施工を行なっている。
それに先駆けて今月の8日、1階部分に最新モデルなどを展示する「グローバル本社ギャラリー」をオープンした。
面積は約4000平方メートルで、約30台の新車や試作車を展示。また、歴代の日産車のミニカーや各種グッズを販売するコーナーを併設している。
そごう、スカイビルとはペディストリアン・デッキで結ばれておりアクセスは良い。
MM21にアクセスする経由地として新しい横浜の名所になろうとしている。
それにして、ここのオネーサマたちは容姿端麗で、オジサンは目が合うとドギマギしてしまった。
横浜へ行く楽しみがまた増えてオジサンはウレシイ!?
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横浜の街角では今“ドライミスト”が旬のようである。
このドライミストとは、水を微細な霧の状態にして噴射し、蒸発する際の気化熱の吸収を利用して主に地上の局所の冷房を行う装置のこと。で、水の粒子が小さいため素早く蒸発し、肌や服が濡れることもないのである。
だからネーミングが“ドライミスト(乾いた霧)”という相反する単語を結びつけた新語が出来た次第。
確かこの“ドライミスト”は2005年の愛知万博会場から実用化され次第に広まっていったのでは・・と記憶している。
この“ドライミスト”だが実は能美防災という会社の登録商標だという。
日大大通りでも伊勢崎モール入口でもこのドライミスト”が散布されていた。
確かにこのミストシャワーを全身に浴びるとひんやりと気持ちがヨイ。
でも、政治の霧(ミスト)には巻かれたくはないなぁ・・・と感じた今日この頃である。
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先日、所用で横浜は霧が丘にいったのだが、途中のバスの車窓から飛行機が見えた!のである。
で、帰りのバスの中から撮影したのがこの写真である。
本物の飛行機に見える。
調べてみたらこれらは本物でオーナーの趣味で展示しており、このオーナーは元飛行機関係の仕事をしていたらしい。
で、この飛行機が飾ってある建物は「アビオン」という喫茶店で、うまいチーズケーキとコーヒーを提供し、店内には計器盤が飾ってあったという。
残念ながら今では閉店してしまったらしい。
ちなみに、「アビオン」はAVIONでスペイン語で飛行機のことである。
いかにもラテン系のノリでやってしまった?!というデスプレイ?である、
ちなみにワタクシこのようなレアなノリは嫌いではない。
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今週末は地元中里町内会の「夏祭り」である。
生ビールを飲みつつ、焼き鳥を片手にそぞろ歩く。
ステージではカラオケ大会が行なわれていた。
で、バックに「中里祭亜留辺」だが、“亜留辺(あるべ)”とは地元出身の演歌歌手である。
この後、オンステージが控えている。
焼きそばの行列に並んでいたら、時の人である“小泉進次郎”氏が挨拶周りをしていた。
そういえば大分前の夏祭りで、亜留辺(あるべ)さんが「中里通り商店街音頭」を歌っていたが、この中でしっかり小泉純一郎総理のことも歌いこまれていたなぁ・・・・
衆議院選挙は8月30日であるが予断を許さぬ?神奈川11区である。
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三連休の中日の本日は朝から天気が良くない。
家の中でボーッとしているのもアホらしく定番の散歩(ウォーキング)コースをのんびり?歩く。
うみかぜ公園では「うみかぜカーニバル2009」ということでBBQを楽しむグループや、体験乗船を楽しむ家族連れで賑わっていた。
三笠公園も「三笠公園サマーフェスタ」が開催中で野外公会堂ではダンスパフォーマンス大会が行なわれており、
どぶ板通りも「どぶ板バザール」が3日間開催されていた。
今年の新しい「Dobuita Street」のフラッグは「ネービーバーガー」のデザインである。
そしてどぶ板イベント広場では「チャンバラパフォーマンス」で盛り上がっていた。
良きかな 三連休の中日を まったりと過ごす。
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うわまち 灯ろう夜市
今や上町大通りの夏の風物詩としてすっかり定着した「うわまち 灯ろう夜市」である。
300基以上の灯ろうが並ぶと説明されているが、今年は一段とスケールアップし、灯ろうの数も多かった。
揺らぐ蝋燭の優しい灯は実に幻想的で、浴衣を着流し、そぞろ歩けば、時空を超えたワンダーランドに貴方を誘(いざな)うのである。
で、去年読んだ句は「「灯ろうの 揺らぐひかりに 夏はきぬ」
だったが、今年は
「悠久の 時を灯す 灯ろうよ」違うな・・・
「灯ろうは 時を灯す 幻灯器」
ウーン、チョット違う・・・
まぁ、去年と同じようなコメントで芸がないなぁ・・・と感じる今日この頃である。
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横浜開港資料館の「たまくす」
1854(嘉永7)年にペリーが来航したが、横浜に上陸したのがこの横浜開港資料館あたりだという。
横浜開港資料館の中庭に大きな木がある。
通称「たまくす」と呼ばれていてタブノキである。
この「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、ペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」の右側に見てとれるのが「たまくす」である。
で、この1866(慶応2)年の大火によって、「たまくす」は樹形が変わるほど焼失し、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で、「たまくす」はふたたび大きな被害を受けるが、その生命力は尽きることがなかった。
1930(昭和5)年6月、領事館の敷地内に約10メートほど現在ある位置に移植された。
この「たまくす」つまりタブノキは災害には強いのである。
以前、宮脇 昭氏の講演や著書の中でも述べているが、シイ、タブ、カシの木は昔から天災や災害に強いことで知られていて、鎮守の森として神社を守ってきた事実がある。
そして、この「たまくす」は横浜の歴史を見守ってきたのである。
で、Y150のマスコットキャラクター、「たねまる」はこの「たまくす」がモチーフとなっている次第。
(下半身はフネで上半身が「たまくす」の精というデザインである)
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日本大通りの面した「放送ライブラリー」では企画展「もう一度会いたい、朝のヒロインたち~NHK連続テレビ小説の変遷~」が行なわれていた。
現在放送中の「つばさ」は第80作とな・・・これは川越を舞台している。
しかしながら視聴率はイマイチだという。
このNHKの朝ドラを見る事は一時は国民の朝の行事と一つとして確立?されたものだったが、今では皆さんの生活観やら価値観が変わり、その位置づけもビミョーに変わってきている証拠なのかもしれない。
で、NHKの朝ドラだが、やはり「おしん」の存在は大きい。これは国民的ドラマとしても有名で、最高視聴率は1983年11月12日放送(第186回「戦争編・東京の加代」)の62.9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これは2009年2月現在ビデオリサーチの統計史上、テレビドラマの最高視聴率記録だという。
そしてこの「ドラマ」は海外へと飛翔してゆき、世界63ヶ国の地域で放映され「おしんドローム」という言葉を生み出し、「世界で最もヒットした日本のテレビドラマ」とされるのである。
ワタクシの場合、「あすか」(1999年10月4日から2000年4月1日)に愛着がある。
当時ワタクシは仙台に長期出張中であり、職場まであるいて10分のウィークリーマンションに宿泊していた。
で、この「あすか」をゆっくりと見てから出勤していたのである。
劇中で盛んに使われていた「一生一品」という言葉はワタクシの脳裏からいまだに離れない。
そして主演の竹内結子は好きな女優となった。
オバサンやオジサンの中には遺伝子に刻み込まれるほど影響を受けている人達も多い。
そして、生活観やら価値観が変わった現在では、朝のこの一時は淡い記憶として残っているだけかもしれない。
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横浜市は、今年(平成21年、2009年)に開港150周年を迎え、その記念事業の一つとして横浜港(東波止場-イギリス波止場と西波止場-税関波止場の二つの波止場のこと)の整備計画が進めれており、6月2日の開港記念日にオープンした、
東波止場は弓なりに延長し防波堤を築いおり、その形から「象の鼻」と呼ばれるようになった。
で、そのその防波堤で囲まれる水域に面した一帯を「象の鼻地区」(象の鼻パーク)と呼ぶのである。
この「象の鼻地区」は日本大通りの突き当たりに位置し、1854(嘉永7)年にペリーが来航したが、横浜に上陸したのがこのあたりでもある。そして横浜の港はここ「象の鼻地区」から始まった。というよりは横浜の近代史はこの地から始まったといったも過言ではないだろう。
実に広々とした公園で赤レンガ地区と山下公園地区の中間に位置し、今までは古い倉庫などが点在していたが、スッパリ、キレイに象の鼻パークとして整備された。
会場ではトリックアートの第一人者、カート・ウェナー氏が150年前の黒船来航をイメージした作品を展示している。
のどかな土曜日の昼下がり、まったりとビールを飲みつつ潮風に吹かれるのである。
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赤坂見附駅で降りて、弁慶橋から、ホテル・ニューオータニ前の紀尾井町通りの緑豊かな並木道を北上するとまもなく右手に清水谷公園が見えてくる。
江戸時代、江戸には湧水がほとんどなかったが、珍しくこの付近には泉があり、通行人に喜ばれていたという。尾張屋版江戸切絵図にも、シミズダニとの名称が記されていた。
この公園の東端には、「贈右大臣大久保公哀悼碑」と刻まれた立派な石碑が建っている。
明治十一年(1878)五月十四日朝、麹町清水谷において、赤坂御所へ出仕する途中の参議兼内務卿大久保利通が暗殺された。。現在の内閣総理大臣にも匹敵するような立場にあった大久保利通の暗殺は、一般に「紀尾井坂の変」と呼ばれ、人々に衝撃を与えた。
更に公園の左奥には「偕香苑」と呼ばれる茶室のような建物が建っている。
公園の中にある池の辺は気持ちの良いアウトドア・ランチ・スポットでもある。
大久保利通公の孫は吉田茂である。ということは今時の人である「麻生太郎」総理大臣は玄孫にあたるワケである。大久保利通公は強力な独裁をおこなったが、身辺は清廉潔白で、藩閥にも拘泥しなかったという。
少しは見習って欲しい、と思うのはワタシだけ・・・・
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今から27年前に親友が不慮の事故で亡くなった。
菩提寺は鎌倉の本覚寺であり、毎年命日近くの7月の初旬の日曜日に仲間が集まり墓参りするのが恒例となっている。
で、本日がその日でかつての同級生が集まるのでつかの間の同窓会ともなり、墓参りの後に一献を傾けるのも毎年の恒例でもある。
で、この本覚寺だが、元々は幕府の裏鬼門にあたる方向の鎮守としての守護神を祀っていた天台宗の夷堂があり、ここに配流地の佐渡から鎌倉へもとった日蓮が滞在し、この夷堂跡を一乗院日出が1436(永亨8)年に日蓮宗に改め創建したのがはじまりだという。
その後、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めた。これが本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由である。
夷(えびす)堂があったことから鎌倉七福神の一つとして有名で、商売繁盛の神えびす様のお祭の<鎌倉えびす>は、お正月(元旦~3日)、9日の宵まつり、そして10日の「本えびす」を迎え最高潮の賑わいになる。
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今日の天気は「晴れ」なのだが、淀んだ空気が肌にまとわりつき、モヤッとしておりスッキリしない。
なので近場を散歩する。
で、ズーッと気になっていた映画「歩いても 歩いても」のオープニングからラストのエンドロールの背景まで使われたショットのロケ地を探しに出かける。
http://www.aruitemo.com/trailerb1.html
場所的には長沢近辺だと推測しており、海が見える墓地ということで久里浜霊園がロケ地としてプロダクションノートにも記載されているのでまずこの「久里浜霊園」から歩くがすぐに場所は見つかった。
急な坂道を登り、頂上の展望台から少し下がった所の坂道がロケでよく使われていた坂道である。
で、ここからのロングショットがラストのエンドロールの背景である。
時間があったので別れのシーンのバス亭まで足を伸ばす。
場所は三浦半島の秋谷の手前の「子産石」バス亭のそば。
バス亭のショットとして使われた場所、実際のバス亭はもう少し右側にある。
年老いた両親はこの坂を登り、そして「階段」(この階段は葉山の長柄にある)を登るシーンは印象的である。
ごく日常にある風景、これを表現するために“少し”田舎な三浦半島近辺がロケ地に使われたのだろうか。
夏のある日の日常を描いたこの映画はシミジミ、ホノボノと心に染み入ってくるのでワタクシは好きである。
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以前、「石内都展 ひろしまヨコスカ」を目黒区美術館まで観にいったことがある。
石内都さんは横須賀を撮り続けてきた写真家でデビュー作「絶唱・横須賀ストーリー」はあまりにも有名である。
彼女がこの写真を撮った動機はそこに“違和感”があったからだという。
今のヨコスカにはその“違和感”は消えつつある。
消えつつあるがまだ当時の面影がドブイタにはまだ少し残っている。
そして、今のドブイタのメインストリートはまるで“原宿”のように変貌してしまった。
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毎日通勤などでお世話になっている「京浜急行」は去年創立110周年記念ということでイベントが催されたが、JR横須賀線は今年で120周年だという。
で、横須賀駅も1889年(明治22年)6月に横須賀線の開通と共に開業した訳で、開業120周年記念「YY(ワイワイ)スカ線フェスタ」と称して13日と14日JR横須賀駅、ヴェルニー公園でイベントが開催された。
本日14日は伊豆急行「リゾート21黒船電車」の車両がJR横須賀線構内で公開されていた。
この車内は各車両ごとテーマを決めて黒船にまつわる展示をしており、同時に伊豆の各町の観光案内などが行なわれていた。
で、この横須賀線の本来の区間は海軍の防衛拠点でもあった観音崎まで計画されていたが、予算と地形の関係で横須賀を終点とした。
その後、軍事施設が拡張されたため久里浜まで延長された。使用したレールは御殿場線を単線化し、そのレールを転用して横須賀~久里浜間を開通させたのである。
歴史的には既に工事されていた東海道線の大船から分岐された経緯があり、本来の区間は大船~久里浜間である。現在は東海道線の支線などを使って走行しており、一般的には東京~久里浜間を横須賀線と称している。
まぁ、海軍の発達・発展によって必要不可欠な存在となり開通した「横須賀線」だが、今では三浦半島の西の玄関である逗子や観光名所である「鎌倉」を東京と結んでいる。
ワタクシも個人的には「鎌倉」へ行く時に使うのがほとんどだが、その風情ある車窓からの眺めが好きなのである。
特に東逗子から鎌倉沿線から見える里山風景に和まされる。
利用する機会は少ないが思い出は横須賀線の方があるかもしれない。
京急とは違う空気が流れる「横須賀線」も良いもんである。
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毎年5月末の日曜日に三浦市は油壺で催される「道寸祭り~笠懸」である。
これを拝見するのは2年ぶりである。
天気予報では曇りだったが、昼頃から初夏を思わせるうららかな日和になりにけり。
近くに潮騒を聞きながら「笠懸」の一射一射に周囲から一喜一憂のざわめきが起こる。
弁当を広げ、ビールを飲み、三浦一族に想いを馳せつつまったりとした時を過ごす。
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砕氷艦2代目「しらせ」が母港・横須賀で初公開されている。
ちょうど一年前には初代「しらせ」の最後の一般公開が行なわれた。
砕氷艦2代目「しらせ」は今年(2009年(平成21年))の5月20日に、ユニバーサル造船舞鶴事業所において、竣工式・艦旗授与式が行なわれ母港となる横須賀港に回航してきたばかりである。
船内に満ちているペンキ(塗装)の匂いが新艦であることを印象付けている。
初代の「しらせ」は何回も見ているが、見た目の新しさは特に感じられないが、約5か月間の航海で出るゴミ、汚水は船内の装置で処理するなど、南極の環境に配慮した「エコ・シップ」となっている。
基準排水量約1万2650トン、全長138メートル、幅28メートル。観測隊員の定員は、3代目の60人から80人に増えた。建造費は約380億円。
護衛艦に挟まれているが手前のオレンジの船体が2代目「しらせ」で奥の船体が初代の「しらせ」
で、初代「しらせ」は老朽化のため昨年退役し、自治体や企業に保存を条件とした船体購入を呼び掛けたが折り合いが付かず、いかりなど一部を残し解体処分が決まっている。しかし、くず鉄相場の下落で解体も思うように進んでいないのが現状である。
そして、先日のニュースで気象情報会社「ウェザーニューズ」(東京)が「気象や環境問題の情報発信や議論の場として活用したい」と、買い取りを文部科学省に提案したという記事を目にした。
可能なら保存してもらいたいと願うオジサンである。
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毎年昔の海軍記念日(5月27日)の前後の土日に開催されているが今年は1週間前倒しで行なわれた。
何故?海軍記念日の前後かというと、戦国時代に武田信玄が諏訪明神を武神として崇めたのがきっかけで戦いの神として全国に知られたからだという。
で、地元横須賀の諏訪神社例大祭だが今年は小雨がぱらつく中行なわれた。
思えば去年も天気が悪かった。
横須賀は下町を代表する祭りで夏の始めを告げるお囃子が気持ち良く横須賀の街中に響いていた。
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葉山芸術祭のイベントの一つに森山神社・青空アート市があるが、去年からこれに演芸大会が加わった。
場所は境内の中にある一色会館で、小屋的・演芸場的な空間を満喫できます、というキャッチコピーに引かれ、青空アート市を楽しんだ後に、森山劇場エンターテェイメントショー「ようこそエモリレストランへ!」をご鑑賞。
演芸大会というが、一般大衆演芸とは違いこれが実にアンダーグランド的でアナーキーでレアなエンターテイメントショーなのである。
横浜 野毛大道芸でも感じたことだが、非日常的、非現実的な空間がビミューな緊張感を伴い実に面白い。
ビールを飲みつつ刺激的なエンターテイメントショーを楽しむ。
それにしても“チェリーちゃん”の揺れ動くナイスバディには目がくらんでしまった。
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映画「歩いても 歩いても」の中でロケで使われた階段がある。
これが実に印象的な階段で初夏の木漏れ日の中で懐かしくも輝いて見えた。
で、この階段が葉山にあるらしい、ということで探しに歩く。
イトーピアという住宅地へと上がる階段だという事前情報をリサーチし現地へ。
この階段は実にあっけなく発見したが、地元住民もあまり使っていないようだ。
ほのぼのとして実によい感じの階段である。
それにしても葉山には実に味のある階段が数多くある。
階段フェチにはたまらないかもしれない。
今度時間を作って「葉山の階段巡り」もいいかもしれない。
そして葉山の小路も小路脇の風景も良い。
風薫る5月、初夏の緑が眩しく、葉山散策に良い季節である。
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GWの前半はアクティブに動き回ったので今日は定点にてのんびり、まったりビールを飲みつつ「よこはまパレード」見物。
山下公園の街路樹の鮮やかな緑をバックに皆さん元気にパフォーマンス。
そして、日本大通りでは開港150周年記念イベント「フラワーアートフェスティバル」が催されており、
「開国博 Y150」と合わせて大勢の人がGWの横浜を訪れていた。
地元以外の人が多く、ワタクシも何回か道を尋ねられた。
GW中の「よこはま」は活気があり、パレードの中田市長も嬉しそうである。
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雲取山トレッキングの足の疲労が残っているが「横浜 開国博 Y150」をご見学。
これは横浜開港150周年の記念テーマイベントである。
一応平日?なので混んではいないだろうと思っていたが、小学生から高校生まで学生の遠足&社会見学の生徒が大勢訪れていた。
で、目玉はやはりこの「クモ」で皆さんこの前で記念写真を撮っていた。
ショーイベントが1日5回あるのだが、11時のショーはメンテナンスの為中止とな・・・
13時からのショーには大勢の人が見に押しかけたが、内容はイマイチ、前回のショーの方が演出が計算されていて見ていて楽しかった。今回のショーイベントはただ足が動き、水を吐くだけである。
皆の「思いやり」がいっぱいに詰まった地球を作ろう、というコンセプトの「コトバパーク」
山下公園では「よこはま花と緑のスプリングフェア」が行なわれていた。
大さん橋のホールでは「横浜FUNEプロジェクト」が行なわれていた。
横浜の歴史を連想させる150艘の段ボールの船が展示されている。
横浜の夜空に浮かぶ直径20mの巨大バルーンに映し出される地球環境物語「HOME=地球」
夜しか見れないがこれが一番ヨカッタ。
光と音と映像の一大叙事詩は夜空の中で実に幻想的である。
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先週は横浜ではみなとみらい地区、伊勢佐木町や吉田町、関内馬車道で大道芸が行なわれていたが、今週末(4月25日、26日)は野毛で本家本元?の野毛大道芸が行なわれた。
昨日(25日)は雨だったが今日はピーカンの良い天気、でも風強し。
この野毛大道芸では一般的なジャグリングやパントマイム、手品のほかに前衛的な舞踊が演目にある。
これが実に非現実的な空間を醸しだしていてつかの間のトリップ?気分を味わえる。
現実と非現実の狭間というエッジから飛び出してチョット危険なアブノーマルな時間や空間を一時共有させてもらえる。
これは錯覚なのか?夢の中なのか?イヤイヤ凄い!
これは「ささらほうさら」の金粉ショーである。
男性カメラマンのカメラの砲列の多さでわかるとおり凄い人気がある。
そして吉本大輔演出のショー、これも凄い!
この非現実的な被写体と構図、そして時間の流れと舞踊の計算された演出に思わず引き込まれる。
街角パフォーマンスという開かれた空間ならではの開放感と妙にマッチしている、
クセになりそうである。
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豊川稲荷は、愛知県豊川市豊川町1番地にある曹洞宗の寺院。
北海道、東京都、神奈川県、静岡県、大阪府、福岡県に別院を持っている。
で、この神奈川県というのは横須賀は三笠ビルの裏山で通称「大勝利山」にある豊川稲荷横須賀別院である。
そして東京は赤坂見附の豊川稲荷東京別院である。
これは大岡忠相が勧請し、自邸に祀っていたものを、1887年に現在地に移転させて創建させたものである。
東京別院が唯一の直轄別院だという。
ワタクシはよくここの境内でアウトドアランチを楽しむ。
一週間前はここの山門の脇の八重桜が満開だった。
結婚式の写真撮影スポットらしくこの日もタクシーできたカップル&撮影班が
山門をバックに写真撮影を行なっていた。
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今週末 4/18(土)~19(日)の2日間、横浜はお祭りモード一色である。
「みなとみらい21大道芸2009」伊勢佐木町1・2・3丁目、吉田町、関内馬車道では「ヨコハマ大道芸」そして4月28日から始まる横浜開港150周年記念のテーマイベント「開国博Y150」のプレイベントで「ラ・マシン」のショウーがなとみらい地区で行なわれていた。
これらを散歩をしつつビールを飲みながらご見学。
で、この「ラ・マシン」のショウーは16日から始まっており、「漂着」「覚醒(かくせい)」「調教」「散歩」のストーリー仕立てで演出されている。
今日のテーマは「調教」でクモ型ロボットは音楽隊のメロディーに合わせ、赤レンガパークから新港ふ頭までを歩いた。
このクモ型ロボット、高さ12mで重さは37トンでトラックがベースになっている。
そして日本丸をバックにサンバを踊り、
吉田町では「アート&ジャズフェスティバル」が行なわれていた。
ビールを片手に実にまったりとした土曜日を過ごす。
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海自最大の護衛艦である「ひゅうが」が先日横須賀に配備された。で、早くも今日(4月11日)一般公開されるということで散歩を兼ねてご見学。
この「ひゅうが」は日本初の“ヘリ空母”で同時に3機までヘリの発着艦が可能で、格納庫はSH-60クラスなら11機を収納可能なスペースがあり、広い格納庫内でメインローターを広げ、天候や他のヘリの発着艦に影響されずに整備も出来るという。
航空機用エレベーターで見学者を格納庫から飛行甲板へ移動させる方法は「ミッドウェイ」から続くベースでの空母見学時の常套手段でもある。
「ひゅうが」も最初は狭いラッタルで見学者を移動させていたが、見学者が多すぎ対応できなくなり急遽エレベーターによる移動を使うことになったらしい。
主な任務は哨戒ヘリコプターを搭載しての潜水艦駆逐だが、海に囲まれた日本では、大規模災害時の救援救助基地として使用できるという点が個人的には関心がある。
ちなみに本日の一般公開には約8200人が訪れたという。
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去年から「日米親善よこすかスプリングフェスタ」と名称が変わったのだが、去年は花見だけでイベントはナシ。
この名称に変わって初めて本格的なイベントが開催された。
横須賀市民では例の「ピザ」を買い求める人が行く程度で何を今さらジロー的なイベントなのだが、ワタクシは散歩&ウォーキングを兼ねて毎年訪れている。
今年は天気はイマイチで曇空には桜は映えない。
去年は諸事情(事件)のためイベントは中止となり、それなりに静かな花見を楽しんだのだが、今年はスゴイ人出であった。ワタクシがベースを後にしたのは正午前だったが、その頃には行列が三笠前からR16まで伸びていた!
ここで並んでいる人達は1時間程度でベースに入れるのか?
けっこう手荷物検査で手間取っていた。検査ポイントが4ヶ所?で検査に1人4秒かかるとして1分間に処理できるのは120人程度、1時間で3600人か・・・
そして、京急の横須賀中央駅からはまだ多くの人々がベースを目指して歩いていた。
東京の主要駅で「スプリングフェスタ」のポスターを見かけたし、そしてツアーのバスも何台も東京方面から来ていた。
今後は入場制限が設けられるかもしれないなぁ・・それほど混んでいた今年の「スプリングフェスタ」であった。
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追記である。
今日の新聞記事によれば、過去最高の約5万500人が訪れたという。横須賀市民の8人に1人が訪れた勘定だが、ワタクシの知り合い、ご近所では誰一人行っていない。やはり市外からの見物客が多かったのだろう。
艦船見学なら年末の「グランドイルミネーション」が良い。
一昨年は「キティホーク」最後のお披露目があり、去年はジョージ・ワシントンの一般公開があった。
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チョイト買い物で下町を歩いていたら、市役所前の公園から何やら楽しそうな音が聞こえてきた。
で、覗いてみたら「地産地消食育フェスティバル」なるイベントで盛り上がっていた。
ここではカレーや天丼などの出店や三浦大根などを即売していた。
そして、これが三浦半島の地のモノで作った「三浦半島鍋」なり。
イワシのつみれに大根、ニンジンにごぼうなど具沢山。
素朴なウマさが身体に染み入るのがわかる。
ご近所の桜もようやく開花した。
来週末が桜の見頃だろう。
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遊郭としての柏木田が関東大震災後だんだんと衰退していくなかで、安浦は拡大し、最盛期には150軒のカフェがあっという。そして規模は小さいが田浦の「皆ヶ作」へと移っていくのである。
明治16年船越に出来た兵器工場(後の海軍工廠造兵部)を皮きりに、長浦湾沿岸には海軍の主要工場が進出し、「皆ヶ作」もそれと同時に発展していったのである。
安浦はもうその面影はあまり残っていないが、ここ旧「皆ヶ作」地区にはその面影がわずかながら残っている。
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2007年11月に旧三崎高校を舞台に開催された「ロックの学園」が今年3月20日(祝)から22日(日)の3日間、再び開催されている。
三崎ロック学園の信条は「マグロ、大根、ロックンロール!!」である。
いいなぁ~、この土着的フレーズがブルースっぽくて良い。
廊下に張られている「校則?」が面白い。
次世代に「ロックの魂」を伝えていくことを趣旨とした、ロックイベントなので、
70年代のロック少年には少々物足りないのは致し方がないことなのか・・・
オジサンにも楽しめるロックイベントにして欲しい。
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横須賀の北部にある追浜は横浜との市境にある。
で、この追浜だが「おっぱま」と読む。
この追浜には日産自動車追浜工場・追浜研究所、住友重機械工業横須賀造船所、岡村製作所、そして海洋研究開発機構横須賀本部などがある。
ワタクシ、この海洋研究開発機構の一般開放は毎年訪れている。
そんな追浜は来年2010年には「Y・フェスタ追浜」を行なうという。
で、今日はそのプレイベント「プレ杏まつり」が催されていた。
追浜にある貝山緑地を「杏の里」として街の活性化として推進させていく計画で、新名物おっぱま杏鍋が食べられるという!これは行かなければならない。
これが“名物おっぱま杏鍋”である。
杏風味の白玉粉の団子が入っている。ビールを飲みつつワシワシと食らう。
お隣のリサイクルプラザ・アイクルでは「アイクルフェア」が行なわれており、ここで楡 周平や奥田 英朗、J・ディーヴォーなどの古本15冊をお買い上げ。
買うのはいいが、ワタクシの机にはまだ読んでない本がこれで30冊以上山積みとなる。
コマッタモンダ・・・
貝山緑地では杏の花が咲いていた。
貝山緑地から眺めた「アイクル」その向こうには日産の車両運搬船が見える。
これは日産が業務提携を結んでいるノルウェー船社のホーグ・オートライナーズ (Höegh Autoliners) の車両運搬船のようである。
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週末の土日は江ノ島で春まつりが行なわれていた。
この「春まつり」は去年も訪れている。
で、今日は「太鼓ライブ」にあの「ヒダノ修一」が登場するという。
ヒダノ修一は「EnTRANS」のメンバーで、去年は「横濱 JAZZ PROMENADE 」や「本牧ジャズ祭」で
「EnTRANS」の演奏を楽しんだ。
そのEnTRANSのメンバーである井上堯之が引退を表明したのは1月のことである。
もう「EnTRANS」の演奏や井上堯之のギター、ボーカルが聴けないのは寂しいなぁ・・・
と思ったらヒダノ修一の太鼓を聴きたくなり江ノ島に赴く。
小春日和の陽気の中、広場でまったりとワインを飲みながら太鼓を聴く。
ヒダノ修一ユニットの太鼓はビートに気合があると感じる。
和のビートを心に刻みつつほろ酔いでお帰り。
江ノ電の車窓からはサーフィンやヨットを楽しんでいる人々が垣間見れる。
もう春である。
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柏木田が関東大震災後だんだんと衰退していくなかで、安浦は拡大し、最盛期には150軒のカフェがあっという。で、ワタクシの祖母も戦前は早川質店の裏手でカフェを営んでいた。
そんな安浦だが当時の面影は今ではほとんど残っていない。
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大船は鎌倉市である。
しかし、大船の駅を降りると鎌倉の駅前に醸し出されている“ツン”という空気はなく、実に庶民的な雰囲気に満ちている。
その「大船」だが、ワタクシは良く知らない。
そして、大船フラワーセンターで玉縄桜が咲いているという。
これは見に行かなければナラナイということで「Jazz in 鎌倉」を楽しむ前に大船フラワーセンターに立ち寄る。
で、これが「玉縄桜」である。
玉縄桜とは約40年ほど前に同園でソメイヨシノの自然交雑実生(みしょう)株から選抜育成したもので、地元の由緒ある地名の「玉縄」を冠して名付けられ、1990年に正式に種苗登録された鎌倉生まれの桜でである。
ソメイヨシノよりも20日ほど早く咲き始め、約1カ月にわたって見ごろが続くのが特徴。
そして大船のランドマークである「大船観音」
その姿は何度も見ているがそばで拝見するのは初めてである。
大船観音は、昭和4年から建造が始まったが、資金難となり昭和9年に工事は凍結。その後は日中戦争、そして太平洋戦争の開戦と、戦局の悪化により築造は中断。戦後、大東急の五島慶太や議員が中心となって工事が再開。昭和35年に完成した。
戦後は“護国平和願望成就の守り本尊”として奉祀されている。
で、この東急の五島慶太だが、大船では文化住宅地の開発に着手し、私立の名門、清泉女学院、栄光学園などの誘致にも成功した。その一環として、観音様を完成させることは、その事業の一つであったのかもしれない。
それにしても鎌倉・大船などの開発には西武と東急の名前が必ず出てくる。
山を崩して、海を埋め立てるという開発はいまだに行なわれている。
思わず環境破壊の防止を観音様にお願いしてしまった。
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先週の土曜日、「妙心寺」展を観た後、上野、谷中、入谷、浅草を散歩。
下町風俗資料館
東京下町の風俗や歴史、社会状況等の資料を展示する。1階では大正時代の商家や長屋など街並みを実物大で再現。2階は生活関連の用具やおもちゃなどがある。
旧因州池田屋敷表門(黒門)からのぞく梅
旧東京音楽学校奏楽堂
旧吉田屋酒店(台東区立下町風俗資料館付設展示場)
SCAI THE BATHHOUSE
谷中霊園と東京芸術大学の間に立地する、現代美術ギャラリー
http://www.scaithebathhouse.com/ja/about/profile/
大名時計博物館
ある民家の入口
入谷鬼子母神
1659年創建の安産と子育ての神。他人の子を奪って食べた夜叉が、お釈迦様の戒めに改心し鬼子母神となった。毎月8日、18日、28日が祈祷日で、7月6日~8日は朝顔市で賑わう。
鳳神社
鷲神社は江戸時代には鷲大明神社と呼ばれ、隣の長国寺と神仏混淆で、長国寺の住職が別当を兼ねておりましたが、明治に入り神仏分離され、鷲神社と改称されて、境内地も別々になった。
吉原観音
新吉原花園池(弁天池)跡
池は「花園池」「弁天池」の名で呼ばれましたが、大正12年の関東大震災では、多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。
弁天祠付近の築山に立つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものです。
昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(※台東区教育委員会 看板より引用)
浅草寺
浅草寺は7世紀推古天皇の時代に創建したという起源をもつ都内最古の寺。
推古天皇36年(628)の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(現在の隅田 川)で投網中に一躰の仏像を感得しました。郷司であった土師中知はこれを拝 し、「聖観世音菩薩」のお像であることを知り、3人で深く帰依したというの が浅草寺の創建である。
浅草神社
通称 三社様・三社権現
浅草寺の草創に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。
スターの広場
浅草公会堂の前にあるスターの広場には、森進一や藤田まことなど、270人以上の有名人の手型が並ぶ。芸能人のほか、作曲家や噺家など顔ぶれは多彩。手形は毎年増えている。
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2002年から町おこしの一環で始めた「桜まつり」も今年で第7回を迎える。
徐々に有名になり、去年は10万人が訪れたという。
今日も昨日からのバカ陽気が続き実に暖かく、初夏のような陽気である。
小松ヶ池を廻りゆっくり歩いても1時間弱の毎年恒例の散歩コース。
河津桜、菜の花、そして水仙の花に囲まれてビールを飲む。
空を見上げると雲がゆっくりと流れていく。
のんびり、まったりと春の陽気を感じる。
至福の時である。
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野比、長沢の里山を散策した後は遠くに見える「NTT横須賀研究開発センター」まで足を伸ばす。
実はワタクシこの建物の建設に携わっており、他に地元三浦半島には防衛大学校宿舎、油壺の東京大学地震研究所などの施設を作った。
で、この「NTT横須賀研究開発センター」は当時は日本電信電話公社(電電公社)の横須賀第2電気通信研究所で通称「第2通研」と呼ばれていた。
何故ここに通信研究所が出来たかというと電波障害が少ないからという理由で、第1電気通信研究所が武蔵野だったと記憶している。
今では「通研通り」という道路にその名残がある。
この道も当時は舗装されていない農道の砂利道だった。
この建物は1期と2期に分けて施工され、ワタクシは2期工事に従事していた。
そして、この時に携帯電話のプロトタイプという模型を見せてもらったことがあるが、「コンバット」(古い話だな・・・)に出てくるような無線機のような形をしていたのである。
研究員の方に「これが将来の電話です」と説明されたが当時のワタクシはイマイチ理解できていなかったと思う。
その8年後、香港に赴任した時に、ビジネスマン達が手にモトローラ社製のデカイ携帯を持ったおり、このプロトタイプの模型によく似ていたのを思い出す。
YRPが携帯電話発祥の地といわれているが、それはここ第2通信研究所(当時)で生まれた、とワタクシは思っている。
それにしてオジサンは今の携帯電話の進化についていけないなのである。
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京急のYRP野比からYRPに続く里山道を歩き光の丘水辺公園を経て長沢まで歩く。
かろうと山古墳
7世紀前半頃に作られた古墳で豊かな副葬品などから三浦半島の古墳時代の支配者の墓であると考えられている。
YRPセンター
横須賀・リサーチ・パークの頭文字を取ったもので、東京湾を望む丘陵地に電波情報通信技術に特化した研究開発機関が基礎から最先端技術まで幅広い分野での研究開発活動を行なっている。
光の丘水辺公園
里山の畑
天照大神社
今から360年前の創建だと推測されており祭神は大日要貴命(おおひるめのむちのみこと)
大日要貴命は天照大御神の別名である。
明治41年神社併合令により、浅間神社・若宮神社、長沢浜の熊野神社、春日神社がここに合祀されている。
横須賀警察犬訓練所
JKC(Japan KennelClub)公認の警察犬、災害救助犬訓練所として幅広い活動を行っている。
道沿いの梅も3分咲きで早春の気配を感じた今日この頃である。
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今日は日本橋での所用を済ませた後、東京の下町である深川近辺を散策する。
清澄白河からスタート。
この近辺は松尾芭蕉ゆかりの地である。
松尾芭蕉は延宝8年(1680)から元禄7年(1694)51歳で没するまで深川芭蕉庵に住み旅に出ていたのである。
従って芭蕉の痕跡がいくつか残っている。
芭蕉稲荷神社
深川芭蕉庵跡に建てられている。
芭蕉記念館
隅田川のほとりの「分館史跡展望庭園」には芭蕉翁の像が建てられている。
採茶庵跡
清澄寮
同潤会のアパートが次々と壊されて新しい建物に変わっていっているが、この「清澄寮」はまだまだ現役である。
深川江戸資料館
地下1階、地上2階の吹き抜けの中に、江戸天保時代(明治まで僅か20年)の(1842年)の江戸深川佐賀町下之橋の橋際一体を再現している。
ここで行なわれていた「手ぬぐいでごあいさつ」という特別展示。
旧東京市営店舗向住宅
関東大震災の復興事業として建てられた、清澄庭園との間に連なっている長屋形式の集合住宅。
清澄庭園
江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられており、その後、岩崎弥太郎が三菱社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画したのが始まり、1924年(大正13年)に東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈、東京都が整備して清澄庭園として開園させた。
深川江戸資料館の受付のお姉さまが話していましたが、どんどん古い建物が壊されており、ここ5年間で清澄白河近辺は大きく変わってしまったという。
「清澄寮」は永久保存してもらいたい、と切に感じた今日この頃である。
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ご近所のお年寄り(かなり高齢)の方の中にはいまだにうらが道を「本道」、米が浜を「観念寺」、富士見町を「しんばか」と言う人がいるが、不入斗橋付近にあった「柏木田」を口にする人はいない。
「触れられたくない過去」であり「触れてはならぬ過去」なのかもしれない。
明治時代、富国強兵の名の下に横須賀は近代軍港として位置付けられ、その軍港と共に発展してきたのが「遊郭」である。
この遊郭は最初大滝町にあったが、明治21年の12月、大勝利山近くの豊川稲荷付近から出火し延焼により遊郭は炎上した。
その後、遊郭は柏木田に移転し軍人や横須賀製鉄所の技師などの客で賑わったという。しかし、関東大震災で倒壊した建物が多く、遊廓としてはその頃から次第に衰退し、新開地の安浦そして田浦の皆ヶ作に移っていくのである。
そしてここ「柏木田」は山口 瞳の私小説「血族」の舞台でもある。
ちなみに山口瞳の母親方の菩提寺とワタクシの母親方の菩提寺は佐野にある妙栄寺である。
柏木田という地名は町内会で残っており、隣には「穴守稲荷」がある。
これもここに遊郭があった証拠でもある。
羽田の穴守稲荷が有名である。
東京国際空港内の開墾地であった鈴木新田の堤防上の一祠に風浪の害をなくすために稲荷大神を祀ったのが始まりで、やがて、堤の「穴を守る」という連想から、女性のシンボルにも転化され、「女性の病気」を守るという解釈がなされたため、婦人病に悩む者や花柳界、遊郭の関係者にもてはやされるようになっていったのである。
そんな当時の信仰心からここに「穴守稲荷」が建てられたのだろう。
そして病気になってしまった女郎達は地下牢で放置されていたようで、富士見町の丘の上に密かに埋葬されたのである。
確かに「触れられたくない過去」なのかもしれない。
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ワタクシの趣味は“散歩”“ウォーキング”そして野山を散策する“トレッキング”である。
で、本日は「海の公園」でのフリーマーケットから長浜の「野口英世記念公園」を経て能見台まで歩く。
まぁ、これは“散歩”&“ウォーキング”である。
「海の公園」でのフリーマーケットは大勢の人出で賑わっていた。
ここでアウトドア専門の出店があり小物を購入する。
しばらく歩いて「幸浦駅」から能見台に向かう。
その途中に「長浜野口英世記念公園」がある。
この長浜は埋立てする前の明治時代まで今の「長浜野口英世記念公園」近くまでが海でここに横浜海港検疫所があった。
「長浜野口英世記念公園」には旧細菌検査室が保存されている。
明治32年5月、当時22歳の野口英世は、横浜海港検疫所に約5カ月勤務し、同年6月横浜港に入港した「亜米利加丸」の船倉で苦しんでいた中国人の船員からペスト菌を検出し、野口の名を有名にした。それはこの「細菌検査室」での出来事である。
で、このペスト菌の発見から予てから熱望していた渡米のチャンスをつかみ、世界的細菌学者への道を歩み始めたのである。
そしてこの「長浜野口英世記念公園」の前にアノ!高校野球で有名な横浜高校の野球専用グランドがある。
で、隣にはバードウォッチングができる長浜公園もある。
京急を横切りしばらく歩くと能見堂緑地から市民の森を経て鎌倉は天園までのハイキングコースもある。
歴史と自然を感じさせてくれる散策が楽しめる「能見台」近辺である。
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山口瞳の「血族」では母親方の生家は遊郭であったが、ワタクシの母親方の祖母は戦前まで安浦でカフェを営んでいたという。
これはワタクシの母親が2歳頃の記憶なので詳細が不明なのだが、大きな玉突き台があったというから健全?なカフェだと想像出来る。
場所は早川質店の裏手だというから写真の通りらしい。
で、当時2歳だったワタクシの母親は店から飛び出して車に轢かれた。幸い車輪の間の車体の下に潜り込んでかすり傷程度で済んだのだが、この轢いたクルマというのが当時の横須賀市長の車で示談金をかなり頂いたという。
事故のあった日は大通りで工事があり、市長の車は抜け道としてこの裏道を通ったらしい。
記録を調べてみると当時の市長は10代目の高橋節雄氏であった。
ちなみに13代市長は小泉元総理の祖父で小泉又次郎氏である。
その後、祖母達は今の住所(中里)に引越し海軍相手の下宿屋を始め、戦後も昭和40年頃まで自衛隊相手の下宿を営んでいたのである。
つくづく基地の街ならではの歴史があるなぁ・・・と感じた今日この頃である。
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紅葉のこの時期は鎌倉宮から瑞泉寺、そして獅子舞を登り天園を経て覚園寺、絵柄天神、
八幡宮を抜けて、海蔵寺、化粧坂、源氏山から北鎌倉に至るハイキングコースを紅葉を愛で
ながら歩いている。
しかし、覚園寺だけは拝観ツアーに参加しないと境内に入ることが出来ず今までは未体験ゾーンであった。
それでも愛染堂前の紅葉も見事でこれだけでここを訪れる意味はある。
で、先日は覚園寺の「拝観ツアー」に参加してきた。
一歩境内に入ると800年前の鎌倉時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。
幽遠の時の流れを凝縮したような空間に心が凛とする。
ここの紅葉はイチョウと紅葉のコントラストが見事である。
残念ながら境内は撮影禁止である。
そしてこの紅葉を楽しみたいのなら午前中の拝観ツアーに参加した方がよい。
尾根と尾根の間に深く入り込んだ谷(やつ)が覚園寺の境内となっているため冬の時期は
午後には日陰になってしまうが、午前中は境内に日が差し込んでいるので紅葉を色鮮やかに
楽しむことができるのである。
隠れた紅葉の名所である。
覚園寺の敷地は広い。天園の山に刻み込まれた百八やぐらも敷地内であり、お隣は建長寺
だからその広さに驚く。
覚園寺は敷地面積は約3万坪で鎌倉でこれだけの広さがあるのは、他に、建長寺と鶴岡
八幡宮だけだという。
この覚園寺は雑誌などではあまり紹介されていないが、知る人ぞ知る“鎌倉を感じさせ
てくれる寺”だと思うのである。
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混雑が予想された今年度のグランド・イルミネーションはやはり大勢の人が訪れていたが、大変手際よく手荷物検問を行いわりとスムーズに入場できた。
新聞によるとこの日にベースを訪れた人は約、約二万九千人だという。
この数字どうやって調べたのかなぁ?
ワタクシの印象だともっと多いと感じたのだが・・・
ジョージ・ワシントンの全長 は333 m で、全幅 76.8 m 、その飛行甲板が大勢の人で溢れていた。
去年のキティ・ホークの公開時と比べてもその混雑ぶりが分かる。
艦載機は全て厚木基地に行ってしまいガランとした格納庫だがジョージ・ワシントンをPRする展示に黒山の人だかり。
公開手順はミッドウェイから変わっていない。格納庫まで階段で上がり、格納庫から飛行甲板までは艦載機用エレベーターの乗せられて上がり、飛行甲板見学後は再び艦載機用エレベーターで格納庫まで下りて格納庫を見学後階段で下船する。
で、面白いのは12号バースに設置されている2つの移動クレーンの名前である。
一つは「YOKOZUNA」でもう一つは「OOZEKI」で、実にジャパニーズライクなネーミングである。
在日米海軍横須賀基地司令部の2階講堂では去年と同じでクリスマスツリーの展示がされていたがここを訪れる人は少なかった。
去年から始まったグランド・イルミネーションだが、去年の方が良かったような気がする。
やはり今年は原子力空母ジョージ・ワシントンのて初めての一般公開ということでピリピリしていた。
来年はもう少し落ち着いて出来るかもしれない。
ベースの中では歴史的遺構物が多く点在している。これを見学できるようにしてほしいのだが、多くの人が訪れる一般公開では警備上の問題で難しいのかもしれない。
やはり歴史ツアーに参加するしか方法はなさそうである。
まぁ、来年のグランド・イルミネーションに期待しましょう。
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今年の(11月の)酉の市は3回ある。
「酉の日」は毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、12日おきに巡ってくる。
この日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年があるわけで、今日が「三の酉」であった。
この「酉の市」は大鷲・鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼で、大酉祭、お酉様とも呼ばれる。
酉の市で縁起物を買う風習は、関東地方特有の年中行事である。
で、この諏訪神社は信州諏訪明神をこの地に勧請したものと伝えられており、「水天宮」「稲荷神社」「大鷲神社」の三社が勧請・合祀?されている。
市内で「大鷲神社」があるのはこの諏訪神社だけなので毎年酉の市が行なわれているのである。
そして向かって左にあるのが「大鷲神社」であるが、ここを参拝している人は少なかった。
境内は参拝する人、そして熊手を買う人で賑わっていた。
大鷲神社で熊手?鷲と熊はどう関係するのか?これには一説ありこの話は後日いたしませう。
「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説があるが、これは浅草の大鷲神社は、吉原遊廓の近くにあり、参詣の帰りに男性が吉原に寄ることが多く、月に3回も遊ばれては困る、ということから、三の酉のあるときは「火事が多い」とか「吉原遊廓に異変が起こる」という俗信を作って、男性の足を引き止めようとしたのだろうと考えられている。
このことは、
「お多福に熊手の客がひっかかり」
「そのあした熊手のオカメしがみつき」
という川柳によってもうかがわれる。
何はともあれ「火の用心」に越したことはない。
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日米親善ベース歴史ツアー
このツアーは人気が高く応募してもなかなか当選しない。
ウワサでは8~10倍の当選確率だという。
ワタクシも4回目のチャレンジでやっと当選した次第。
まぁ、何も今さらベースの中を歩いても目新しいことはないかもしれないが、
一度キチンとした説明を受けてみたかったのである。
また、参加者の殆んどが市外や県外から来ていた。
通常の一般開放では見れない1号ドライドック
慶応3年(1867)3月着工、明治4年1月に竣工
設計はフランソワ・レオンス・ヴェルニー
昭和11年(1936)に船の大型化に伴い拡張された。
これが2号ドライドック
明治17年7月に竣工
そして3号ドライドックは艦船修理中のため撮影は禁止
4号ドライドックは海水が満ちていた。
同行したツアーガイドによるとこれは大変珍しいという。
で、合同演習から昨日帰還した「ジョージ・ワシントン」
接岸している12号バースは「ジョージ・ワシントン」の母港化に伴い2年かけて水深を13mから15mに浚渫作業を行なった。
そして「サスケハナ・ドライブ」なる道がベースにはある。
ペリー来航時の旗艦が「サスケハナ」であり、第一次、第二次世界大戦時にも同名の艦が就役している。
海軍ならではの道路命名である。
そして昭和10年代の皇后、皇太后、そして満州国皇帝であった愛新覚羅 溥儀の行啓記念碑などがひっそりと点在している。
これらを保存してくれたアメリカの大らかさは立派である。
戦時中にペリー上陸記念碑を倒して道路用の砕石にしようとした日本とはエライ違うし、ベース内にある建物も明治時代のものから大正時代のものを米軍が大事に使っている。
親子2代に亘りアメリカに縁があるワタクシにとってベースはある意味でココロの故郷でもあり、その大らかさがごく自然に感じられるのである。
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華麗なる食の祭典・よこすかカレーフェスティバル ~祝!カレーの街よこすか10周年~】
横須賀はカレーの街としてすっかり定着してしまった。
それもそのはずで今年で10年目だという。
毎年恒例のカレーフェスティバルもパワーアップして、会場をヴェルニー公園から三笠公園に移し、昨日と今日の2日間開催となった。
今年は10周年(10年目)の記念すべきカレーフェスティバルということで東京方面でもポスターを多く見かけた。
今日は生憎の空模様で雨が降りそうだが、ポスター効果か遠方より多くの方が訪れており広い会場も大変賑わっていた。
よこすかカレーバイキングは長蛇の列!
ご当地の名物カレーも長蛇の列!
しかも1時を過ぎると完売続出の盛況振りである。
東京から来られたカップルも「カレーがない!」とぼやいていた。
このカレーフェスティバルは去年も訪れている。
で、今日のワタクシはカレーコロッケと山形名物の「いも煮」、そしてビールでまったりとする。
実はワタクシお仕事でしばらく仙台にいた事があり、その時に参加した「いも煮会」の思い出が懐かしい。
仙台のいも煮は豚肉味噌仕立てで山形は牛肉醤油仕立てである。
この仙台風あるいは山形風といった思い入れはそれぞれに強い。そしてこの時期には仙台や山形のコンビニには「いも煮会セット」が販売されるのである。
そして仙台風、山形風のどちらも「いも煮」もウマイ!
なによりも「いも煮」は川原でワイワイやりながら食べるのがウマイ!のである。
で、フト思った、、この「いも煮」にカレールーを加えれば美味しいカレーが出来るのでは・・・
今日の一句
「肉じゃがと カレーといも煮 親戚か」オソマツ・・・・
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昨日と今日は防衛大学校の開校祭であった。
実は去年の開校祭にも訪れており、これがナント!28年ぶりということで結構盛り上がったのだが、防大名物の「棒倒し」は時間の関係で見ることが出来なかった。
で、今日はそのリベンジではないが猛者達の闘志を見たくて訪れる。
秋雨が降りしきる生憎の空模様だが大勢の人で賑わっていた。
29年前、学生舎の建設に携わったので当時の学生舎に対面するのは懐かしくもある。
老朽化に伴い新しい学生舎も建てられている。
今では海外留学生も受け入れており、タイの学生達がつくる「タイやきそば」や「おでん」を食べつつ広い校内を歩く。
前航空幕僚長の論文問題で現政権が右往左往している中、現学校長の挨拶に興味があった。
学校長である五百旗頭氏は
「先の大戦で日本は過ちを犯した、この過ちは素直に認めるべきだ。過ちを認めない者は精神のバランスがおかしい」と切って捨てていた。
ワタクシこの件については何のコメントもございません。
何しろ我家は戦前から旧帝国海軍、戦後の進駐軍、そして海上自衛隊とお世話になっており生活の糧を得ていた典型的な横須賀の民である。
で、今日のメインイベントである防大名物の「棒倒し」は秋雨の雨脚が強くなっている中で行なわれた。
時代の流れだろうか、何だかおとなしい。
昔(29年前)はもっと荒々しかったのを覚えている。
緻密な戦略・戦術よりも、最先端の技術を優先しようとしている。
「棒倒し」も次第に過去の遺物になっていくのかなぁ・・・
何はともあれ彼等が誇りをもって守れるような国になって欲しい、と切に思った今日この頃である。
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昨日はハードな山行だったので今日はまったりとしませう。
で、「よこすか産業まつり」に赴きビールと焼き鳥でまどろむというナイスな考えが浮かんだ。
今にも雨が降り出しそうな空模様だが三笠公園は大勢の見物客で賑わっていた。
早速ビール&焼き鳥で海を眺めつつまったりとする。
ラーメンで軽く締めて、ウーロン割に切り替え、野外音楽堂?へ席を移す。
ここでは「西口プロレスvs0468スタイル お笑い決戦」が行なわれる。
西口プロレスといえば、長州小力が有名でいみじくも彼が西口プロレスを称してこう言っている。
「お笑いブームを3回くらい逃しちゃった芸人たちがシャレでやっているプロレスごっこ」
ワタクシ初めて彼らのステージを見たが、イヤ~面白い。
多少なりとも昔のプロレスを知っている(シャレがわかる)オジサンならツボにハマる。
ジャイアント小馬場のありえないようでありうる?迷演にワタクシ腹筋をよじり、涙を流して笑い転げてしまった。
そして、記憶の中のプロレスが甦る。
ありましたね~ “アントニオ猪木とマサ斉藤の巌流島の戦い”
良き時代の良き思い出。
愛しのプロレスよ、永遠なれ。
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「うみかぜ祭」とは平成町にある神奈川県立保健福祉大学で開催される大学祭のこと。
そして“Bestival”とは“Best Festival”の略称であり、造語で、今回で第6回目にあたる。
この建物の設計は東畑建築事務所で、キャンパスの最大の特徴は、2列に平行に並ぶ建物に挟まれた『交流プラザ』とそこを覆う約10,000m2の大屋根である。
ガラス張りのエレベーターシャフトや階段・ホワイエ・カフェなどが印象的。
この大学が設立される経緯には紆余曲折?あったらしいが、こうして6年目を向かえ地元と密着した雰囲気が実に好ましい。
そして、学生たちが活き活きと接客している姿が印象的である。
福祉とはいったい何ぞや?
社会的に行う相互扶助や援助活動なのか?
その意義と社会的に(自治体の)取り組む姿勢の現状はどうなのか?
断片的にキーワードだけが浮かび、現実の問題点が脳裏をかすめる。
しかし、ここで学んでいる学生達を見ていたら、日本の福祉の将来も見捨てたもんではないなぁ・・・と望みが湧いてきた今日この頃である。
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稲岡祭は神奈川歯科大学(附属歯科技工専門学校含む)、湘南短期大学合同の大学祭である。
この神奈川歯科大学から横須賀学院にかけては、もと海軍機関学校が置かれていたところでもある。
去年はここの校内にあるジャカランダの花を見に来たことがある。
そして、このジャカランダは世界三大花木で横須賀が北限らしい、ということもこの時に知った。
校内学生達による出店や出し物などで賑わっていた。
思いっきりシャウトする学生バンドは見て聞いて実に楽しい。
そういえば以前この大学祭で口腔内診査、ブラッシングの指導を受けたことがある。
歯は大事にしなければならないと思うのだが、先日ラジオで歯科技工士がいなくなるというショッキングなニュースを聞いたのを思い出した。
値段3分の1の中国製の入れ歯や差し歯などの「義歯」が日本に輸入されているのが大きな原因であるという。
歯科技工士の現状は危機的であるらしい。
ここにも中国の脅威の影がチラついている。
日本の歯科技工士の技術レベルは世界的に見てもトップレベルである。
この日本の歯科技工の技術を廃れさせてはいけない。
ワタクシが入れ歯や差し歯をする時には絶対に日本製にしよう、と固く心に誓いつつ稲岡祭を後にしたのである。
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秋の気配も深まりつつある10月の中旬に行なわれる横須賀ならではのみこしパレードである。
何が横須賀ならではかとというと横須賀のメインストリートである「横須賀中央大通り」 を練り歩いた後、米海軍横須賀基地内に入りこれもメインストリートであるクレメンテ・ブルバードも練り歩くというものでアメリカの街並みの中を70基以上の山車や神輿が行交う様が横須賀の名物になっているからである
「ひょっとこ」や「獅子舞」のコミカルな動きにアメリカの方々はシャッターを切る。
で、横須賀ならではの“みこし”は「海上自衛隊」チームと「在日米海軍」チームの“みこし”だろう。
「海上自衛隊」チームは若さ爆発!とにかくエネルギーが迸っていた。
そして「在日米海軍」チームは正調な掛け声である「わっしょい」で練り歩いていた。
こちらもパワーがあって見ていて楽しい。
ところでこのみこしの掛け声だが各地域に独特の掛け声がある。
湘南地区はどっこい担ぎが多く、「どっこい、どっこい」「どっこい、そ~りゃ~」「よ~い、よいと」甚句が入れば、「よい、よい、よいしゃ」に変わり甚句の最後には「そ~りゃ~ そ~りゃ~」となるという。
最近ではよさこいソーランに影響された掛け声が多いような気がする。
また、「エッサ」という掛け声があるが、これは古代ヘブライ語(古代ヘブライ語で「エッサ」とは「運ぶ」と言う意味である)から来ていると言う説がある。
以前、「浅草寺の三社祭とは?そして神輿とは?」で“みこし”と古代ユダヤの聖櫃(アーク)の類似性から日ユ同祖論に触れたがやはり何かしらの因果関係はありそうだ。日本の祭りと古代文明の関連性は想像すると楽しい。
で、よこすかみこしパレードに話は戻るが、“みこし”パレードを見ながらバドを飲みつつホットドックを食らう。
これも横須賀ならではのクロスカルチャルな体験なのである。
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この「軍港めぐり」は期間限定で行なわれおり、ワタクシも2回ほど利用したことがある。
これまではGWや夏休み期間中に限ったものだったが、
そして今年9月から発着場を穏やかな湾内に設けることにより、年間を通して曜日を問わず、毎日の運航を可能にしたもの。
場所はショッパーズの海側にある汐入新設桟橋。
運航時間 : 1日4便 (11:00、12:00、13:00、14:00)
この軍港めぐりは横須賀市でしか実現できないツアーで市外から人を呼び込める大きな可能性を持っており、
横須賀市も全面的にバックアップして積極的にPR活動を行なっている。
今、空母「ジョージ・ワシントン」の巨体は演習航海に出ており見ることは出来ないが、
休みの日は大勢の人が乗船して軍港めぐりを楽しんでいた。
横須賀の新しい名物になりつつある。
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今日は横浜の中華街で豪華フルコースのランチを頂く。
食後は腹ごなしの散歩。
そして、見慣れぬ建物を見つけた。「横濱媽祖廟」とな・・・
で、調べたらこの「横濱媽祖廟」は2006年の3月17日にオープン(開廟)したという。
媽祖は人間から神様となり、そして海の神様として祀られている。遠い昔、海を渡り海外へ渡っていった華僑たちの心の拠り所だったのかもしれない。そして現在世界には26か国1500以上の媽祖廟が建てられ、2億人以上が祀っているという。特に台湾には800以上の媽祖廟があり、千五百万人が日々参拝しているという。
折りしも10月は7日が「媽祖昇天の日」(媽祖が天に昇り、神として祀られた日)で、10日が「雙十節(そうじゅうせつ)」(中華民国の建国を祝う祭り)で媽祖廟も中華街も大変賑わっていた。
この媽祖廟だが、中国の伝統的な寺院建築の設計思想に現代の建築技術を融合した鉄筋コンクリート造2階建ての建物で、面積は984平方メートル。本殿には中国福建省でつくられた神体がまつられている。総工費は土地代も含めて18億円。
当初は大手マンション会社(大京)がマンションを建てる予定だったが、中華街発展会協同組合が、中華街の街づくりの観点から建設に反対し、土地を購入し媽祖廟を建てることを提案。マンション会社と協議の上、土地を買い取ることで合意し、建立に至った経緯がある。
近くには「関帝廟」もあり、新しい名所として中華街の伝統文化を継承して欲しいと願う。
ちなみに日本で最初に媽祖廟を奉ったのは江戸元禄3年、水戸光圀公(水戸黄門)だといわれている。
たまに中華街を歩くと新しい発見がある。まさに「温故知新」の街である。
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この「赤門」の右横には円柱形の石造の道標がある。
文久2年(1862)に建てられたものだ。かつてこの門前を江戸と浦賀を結ぶ主要道路が走っていた証である。また赤門の前は明治末まで白砂青松を連ねた美しい浜辺であった。しかし、一度嵐になれば風雨が激しく赤門から通ったという。
「右大淳浦賀道、左横須賀金沢道」と刻む道標が当時を偲ぶように建っている。
明治18年に創業した海軍ご用達「小松」は最初、田戸の永島家の赤門前で営業していた。小松が創業した当時の田戸は浦賀への道は通じていたが、海岸線を通ってくる道はなく上町を越えてくる方法しかなかったので海軍さんにとっては不便な所であっと想像できる。

当時の地図
この永島家だが、江戸時代の御台場建設の経験をかわれて、東京湾も請け負い第二海堡と第三海堡の施工時の記録が見つかっている。そして、この海堡で得た技術を活かし、明治44年(1911)から田戸海岸の埋立を始めるが工事は難航し、大正5年(1916)に工事とその利権を安田保善社に譲りわたすことになる。いかに難工事であったか、現在安浦公園(かつての安浦港前)にある供養塔に刻まれた犠牲者の数をみてもわかる。
安浦公園の供養塔
ちなみにこのあたりの地名「安浦」は安田保善社の「安」と港の意味の「浦」をあわせ、「安浦」と名付けられることとなった。
で、この朱塗りの「赤門」だが当時は将軍家から特別に許可をされなければ出来なかったのである。赤門はどのような事情でここへ置かれのであろうか。三つの説があるという。大津陣屋が閉鎖された時、そこにあったものを田戸庄へ下げ渡した。(当時、役所のものでないと、朱塗りは許されなかった)浦賀の御倉所の関係者の門が、ここに移された。 鎌倉八幡宮寺の門を浦賀へ、と古文書にあるので、それがここへ。
その歴史などは今後の研究に待つところが多いのだが、聖徳寺坂はワタクシの散歩道でもあり、時折脇に入り赤門前を通り過ぎると四季様々な表情を見せるくれるチョット“渋い”隠れた名所である。
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聖徳寺坂を下り、途中ガード下左側の石段を下る。左折して旧道に入ると左手に大きな門が見える。これが旧永島家の 「赤門」である。朱塗りの(今はチョット剥げているが)間口8間(約14m)、奥行き2間(約3.6m)の木造瓦葺の江戸時代の長屋門である。
この「赤門」は長屋門と呼ばれる作りで、使用人たちの住まいを兼ねたもので、中央の門扉はケヤキ材である。門自体は江戸時代のものだが、他のの部分は何度か改築されている。
で、この永島家だが横須賀の歴史を紐解くと必ずその名前を目にする。それもそのはずで、永島家は戦国時代、小田原北条氏の下で浜代官を務め、江戸時代には三浦郡総名主を務めてきた家柄である。さらに歴史を遡れば三浦一族にたどり着く。
三浦義明を先祖とする三浦義勝は、中先代の乱に北条時行に加担し、敗れて捕らわれ、楠正成に預けられ、助命されて三浦に帰った。
その義勝の子が義政で彼が永島姓を名乗ったことに始まるだが、義政が二十一歳で早世したため、義政の妹を楠正成の四男正徳に嫁がせ、永島家を相続させているのである。
聖徳寺
また、この正徳は文和二年(1353)に聖徳寺を創建している。
そして三代目正義の弟正胤が幼年に出家し、のちに円城寺加賀守となり、鎌倉の合戦に参加し功をたて、後に木曾に下り島崎姓を名乗った。これが島崎藤村の先祖である。
藤村の「夜明け前」では永島家を山上家、島崎家を青山家と称して書かれている。
「夜明け前」は昭和4年から10年まで足かけ7年かけて完結した。山深い木曽・馬籠宿の本陣・問屋の家に生まれた青山半蔵(藤村の父・島崎正樹がモデルという)を主人公に描く物語で、半蔵が明治維新という激動の中で、近代=「夜明け」を目指して自らも奔走するが、明治維新は真の近代をもたらしてはくれず、時代にもてあそばれれ、やがて狂死するという話である。
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横須賀中央駅から平坂を登る。最近ではこの近辺も商業ビルや高層マンションが建ち、古くからの商店がスーパーに変わるなど、昔ながらの景観が失われつつある。そんな中、平坂の途中の左側に出し桁造りで、側面が石積みの堅固な建物が立っている。釜屋金物店である。「釜屋」という屋号は浦賀の「釜屋金物店」から初代の鈴木斎治郎さんが暖簾分けしてもらい、明治33年にこの地に店を出したことに由来する。
現在の建物は関東大震災前に建てられたもので、家紋入りの特注瓦は震災の時にも落ちず建物も瓦も建築当時のままである。
側壁の石は石は房州産(鋸山産)で、防火対策に使ったという。
アーケードの上、2階部分には銅板張り亀甲型文様の戸袋と太めの桟で仕切られたガラス戸が見える。
中に入ると間口約7.6m、幅が60cmほどの大梁に圧倒される。この梁は長野の木曾まで出向いて探してきたものという。
また、斎治郎さんは横須賀市の第14代市長を務めた人で「市長の店」としても知られていた。
先代の時、戦時中金属はすべて供出、戦後は商品の仕入れに奔走。夫婦で背中と両手にいっぱいの手荷物を抱え、川口市との間を日に何回も往復したという。
ワタクシも七輪やら餅網などをよく買っていた。商店街の活性化のために頑張ってほしい実に味のある商店である。
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今日は天気予報では雨であったが、その予報をひっくり返し晴天とまではいかないが晴れ間が見える良い天気。
浦賀では叶神社の例大祭があり、金沢文庫では海の公園で「金沢文庫芸術祭」が開催されていた。
残暑が残りわずかな夏を告げているようで、その海の気配を感じに海の公園へ行く。
この「金沢文庫芸術祭」は今年で10回目。
以前は確か「称名寺芸術祭」という名称で開催されていた。
海の公園の草地で開催された「金沢文庫芸術祭」は、その手作り感が何とも心地よく木陰でビール飲みながらまったりしていると気持が安らいでくる。秋の気配の風が肌に気持ちよい。
小さい頃からこういうイベントの雰囲気に慣れ親しむことが出来る子供達は幸せだなぁ・・と感じる。
横浜市は今年で浜開港150周年・金沢区制60周年ということで海岸では「横浜ビーチフェスタ」もタイアップして盛り上がっていた。
攻守が一瞬で切り替わるビーチサッカーは見ていて飽きない。
夏の終わりと秋の始まりを同時に感じることが出来る「金沢文庫芸術祭」はアートの余韻をも感じさせてくれる心安らぐ芸術祭である。
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聖徳寺坂は上町の税務署脇から安浦町の国道16号を結んでいる。
坂下から臨む
この安浦町はかつての公郷町を埋め立ててで誕生した町である。
明治39年に計画され、石渡担豊、永島庄兵衛(田戸庄)らの地元有志の協力によって行なわれ、途中で安田保善社に事業を譲り渡し10数年の歳月を要し大正11年12月に完成した。この時に出来た安浦港(重箱)はかつてワタクシの遊び場でもあった。
そしてこの埋め立て事業と同時に「聖徳寺坂」も造られた訳で、埋め立て前には坂は2つあったという。
一つは聖徳寺前から今の京急線ガードをくぐる坂で道幅も広く馬車が通った。
もう一つは谷間の細道で「赤門」脇に下りる坂で震災で埋まってしまった。
この細道の脇に川が流れていて、1、2丁目の境だったという。
埋め立て工事が完成した当時、聖徳寺坂の周辺には安田保善社所有の住宅が100戸あったが、震災で大部分が倒壊してしまったという。
そして戦前から戦中にかけては海軍の下宿を営む家が多く座っていても商売ができたほど繁盛していた。
坂の両側の下は広くなっているが、これは終戦の年に建物の強制疎開があったからである。
(坂道風土記より)
現在、その道には使われなった階段がいくつかあるのだが、なんだか過ぎ去った時を封印するような印象を与える階段である。
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我家から歩いて数分のところにうらが道が通っている。
そして大勝利山にある「うぐいす坂」を登る手前に「旧土岐愛犬病院」がひっそりと建っている。
ワタクシが幼少のころはまだ現役で開業されていた。
この「土岐」だが本当は土に「点」が付き「とき」と読む。しかしこの漢字はJIS水準には対応していないらしく変換されないのでご容赦願いたい。
で、この「旧土岐愛犬医院」だが、外壁はイギリス下見板張りである。これは板を上に順番に張っていく造りで板の小口が下を向いているので下見板と言われている。
玄関庇には金属の幾何学模様の細工が施された持ち送りが付けられているが、これは震災後から昭和10年代に多い様式らしい。
瓦屋根の住宅部分は明治に建てられたものである。
玄関前には「もっこくの木」は植えられており、これは昔も今も変わりない様でファサードを飾っている。
「うぐいす坂」を通るたびに目を留めて昔の記憶を思い出してしまう、そんな趣のある洋館である。
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今日は小雨の降る中、地元の町内会で「うわまち元気フェスタ」なるイベントが催された。
これは横須賀市の中心部・上町地区から元気な街づくりを盛り上げようと、市民イベントで、フラダンスや綱引き大会などで盛り上げっていた。
このイベントは去年から始まったもので今年で2回目である。
メインイベントの綱引き
園児、児童、中学生以上の3クラスに分かれ、1チーム数人から10数人で行い、参加者には地元の上町連合商店会加盟店で使える買い物券が贈られた。
ワタクシはビール片手に見ていたが、用事があり早々に引き揚げて家でまどろんでいた。
3時から始まり7時まで活気のあるお祭りの音がまどろんでいるワタクシの耳に聞こえてきた。
たしか去年もあまり良い天候ではなかったと記憶しているが、来年は天候にも恵まれ、さらに活気づいたイベントになって欲しいと願っているのである。
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今週末はあまり天気が良くないが、浦賀でみなと祭が行なわれているということで、小雨がパラつく中散歩を兼ねて出かける。
浦賀港住重東岸では「カヌー・カヤック大会」が行なわれていた。
で、このサーフ・バイク?だが操作性もよく気持ちよく水面を滑っていた。
浦賀には悲しい歴史もある。
その歴史を風化させないはならないし、人々の記憶に残さなければならない。
この「浦賀みなと祭」では、関東大震災受難者、海難事故犠牲者、引き揚げ関連戦病死者などの慰霊法要も行う。
特に浦賀は戦後外地からの引き上げの港となった。中部太平洋、南方諸地域、中国大陸などから56万人ともいわれる多くの人々がこの浦賀からそれぞれの郷里へ帰っていったが、引き揚げ船内でコレラが大発生して陸に上がれず船の上で亡くなる人もたくさん出た。そして、これらの犠牲者を荼毘に付した炉の石を用いて建てられた碑が、患者の収容施設跡、現在の久里浜少年院の敷地内にあるのだが、しかし少年院という施設の性格ゆえ参拝もままならなかったために、当時を知る人たちの強い要望で、上陸地のこの地に平成18年に新たに記念碑が建立されたのである。
奉納舞
大灯篭
イベントの最後は花火大会!
コンデジの限界をあらためて知る。
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以前の記事で横須賀には上町にある道路元票しかない、と書いたがこれは間違いである。
浦賀の警察署の前にも道路元票がある。
ここはもともとは川があり橋が架かっていたたもとに位置する。
この辺りは江戸時代は浦賀の外れになり、寂れていたという。そして警察署の先には遊郭などがあった。
それが明治になり浦賀船渠(浦賀ドック)が開設されてから栄えてきた。
この道路元票のあった海側には当時浦賀駅郵便役所があり、浦賀警察署近くには「田毎(たごと)」や「一月屋」などの料理屋があり繁盛していたという。
歌人である若山牧水は、大正4年(1915)3月、妻喜志子の療養のため、東京から北下浦長沢に転居してきた。そして牧水は原稿料の受け取りのため長沢からこの浦賀の郵便役所まで出向いては受け取った原稿料でこれらの料理屋で泥酔するまで酒を飲んだ、という逸話が残っている。
これら繁華街も戦争の足音が近づく昭和になり浦賀ドックの拡張のため姿を消してしまった。
大正時代に牧水が酔い歩いた場所にあるこの道路元票を見るたびに古き良き大正ロマンを感じてしまうのである。
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第2術科学校
先週の土曜日はウォーキングを兼ねてベースの「フレンドシップデー」から海上自衛隊の「サマーフェスタ」そして田浦にある第2術科学校「オープンスクール」を訪ねる。
ベースも海上自衛隊も大勢の人出で大変賑わっていた。
最近では東京方面からのバスツアーも催しているようでツアーバッジを付けた団体さんグループが目立つ。
で、田浦の第2術科学校の「オープンスクール」だがここを訪れる人は少ない。
ここでは海軍カレーではない今話題の自衛隊のカレーが隊員食堂で食べられる。
そして知る人ぞ知る穴場が2階にある海軍機関術参考資料室で、東郷元帥の書や、山本元帥御賜の短刀、そして芥川龍之介が機関学校教官の時に使用した英語の教科書などが展示してある。
これが当時の教科書である
文豪芥川龍之介は、大正5年(1916)12月1日から約2年4か月の間、当横須賀にあった海軍機関学校の英語の嘱託教官をしており、短期間だが横須賀の汐入に下宿していた時期があったのである。
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毎年恒例である横須賀の盛夏の最大のイベント「よこすか開国祭開国花火大会」である。
今日は気温は高いが風が程よく吹き家にこもっているよりは外に出たほうが気持が良い、ということで夕涼みを兼ねて花火見物に繰り出す。
打上げ地点に近い場所なので見上げるので首が痛くなる、というのもご愛嬌
何だかんだいってもこのイベントは焼きソバを食いつつ、ビールを飲み見上げながら花火を楽しむのが良い。
1時間弱の魅惑的なページェントはほろ酔いの中で見事なフィナーレで華々しく終焉したのである。
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真夏の炎天下、クイズラリーを兼ねて「開国まちなかイベント」を見て歩く。
熱中症対策ということでトーゼン!ビールを飲みつつ小まめな水分補給?を図る。
うみかぜ公園から始まり、市役所前公園~三笠公園~ドブイ板~ヴェルニー公園まで約2時間の道のり。
ダンスパフォーマンスにプロレスなど来週の「よこすか開国際」本番の花火大会に向けて祭り気分は盛り上がっていた。
そして、夕方は夕涼みを兼ね「三笠公園サマーフェスタ」に出かける。
キャンドルライトの灯された遊歩道。
そして今日から限定期間のイルミネーションが点灯している。
最近は使用電気量が少ないLEDが主流である。
そして、音楽噴水が再開されていた。
この噴水は老朽化によりポンプ装置などが故障したり、その後も水量を制御する装置が故障するなど去年の6月までは再稼動の予定はなかったが、8月に修理し本格稼動している。
現在は「星のセレナーデ」や市制100周年記念曲 「風を感じる街」などを奏でて、噴水で演出している。
真夏の夜の音楽と光と水の共演を楽しんだひと時である。
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天気予報では19日に「梅雨明けしたとみられる」という何とも曖昧な梅雨明け宣言で連休が始まったが、その曖昧な予報どおりイマイチすっきりしない天気が続いている。
晴れてはいるが大気が澱んでいるようで、その澱んだ熱い熱気が重い鎧の如く身体にまとわりついているようで動作が鈍く感じられる。
その連休も最後の今日は「海の日」ということで海へ繰り出す。
行き先は観音崎で、東京湾海上交通センターが今日は一般公開されているのでこの見学も兼ねる。
観音崎の夏の名物「バーベキュー村」が今日も多い。
標高36mの山の上に建つ東京湾海上交通センターは塔頂部の高さ83.5mで、一般の観光客には横に並ぶ観音埼灯台とよく間違えられるらしい。
で、このセンターでは片側700m幅の細い航路の浦賀水道航路で行き来する一日700~800隻もの船舶の通過時刻の調整を行なっているという。
特に総トン数1万トン以上の船舶や危険物船については通過予定時刻の通報を義務づけ、通過順序の把握・調整を行っているのである。
屋上から眺める浦賀水道も大気が澱んでいる?ため水平線がハッキリしない。
そうそう、東京湾海上交通センターは海上保安庁の所轄である。
で、海上保安庁は映画・ドラマの「海猿」に撮影協力している。
ということで撮影で使用されたウェットスーツが展示されていた。
何はともあれ、船の航路の邪魔だった第3海堡が4年前に撤去され、海上交通ルールが緩和されて大型船の航路が楽になったことは良いことである。
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三浦市のイベントといえばこの「海南神社」なくしては語れない。
1月には国の重要無形民俗文化財に指定されている 「チャッキラコ」が行なわれ、
4月には「食」の神「磐鹿六雁命」を祝う「食の神フェティバル」が行なわれ、
そして7月の19、20日の両日には盛夏の訪れを告げる夏の例大祭が行なわれた。
この例大祭は、市の無形民俗文化財に指定されている行道獅子が有名だという。
これは見なければイケナイ。
独特の木遣りの受け答えによって行道する獅子は雌雄二頭で、厄よけをしながら、漁師町の風情が漂う商店街や住宅街を巡回し、商店や民家の軒先で獅子が威勢よく担ぎ上げられ、掛け声とともに屋内に駆け込んで行くのである。
コリャ~面白い!そして迫力がある!
獅子の頭を4人で持ち、胴部となる布の部分を20人くらいで掴んでおり、これが雌雄二頭だから約50人弱の若者達が店先で掛け声を上げて屋内になだれ込んで行く!
三崎で寿司屋といえば「咲乃屋」、ここもなだれ込まれていた。
そして坂を駆け上がって行った。
盛夏の訪れにふさわしい実に雄大な行道獅子の練り歩きにオジサン嬉しくなってしまった。
そしてこうした伝統行事に毎年参加できる若者達がじつに羨ましいと感じた今日この頃である。
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毎度御馴染みの「ドブ板通り」である。
で、ここで行なわれている「どぶ板バザール」も今回で第100回目を迎えるという。
思えば第1回目が開催されたのが1980年だから28年前になり、ベトナム戦争が終結したのが1975年だからその5年後にスタートしたことになる。
閑散としていた「ドブ板通り」を活性化しようと始めたイベントだったと記憶している。
今ではすっかり定着し、ヨコスカの顔になっており、またヨコスカならではのネービー文化は影を潜め、ヨコスカ・カルチャーの発祥の地として全国的に知名度を揚げている。
ワタクシ的には1978年に第30回小説現代新人賞を採った達忠の「横須賀ドブ板通り」がまだ記憶にあり、この頃の「ドブ板通り」が懐かしいのである。
今では原宿と化した「ドブ板通り」だが、1978年当時はまだ危険な雰囲気があった。
これが男ゴコロというかオジサンゴコロをくすぐる一つの要因かもしれないなぁ・・・
何はともあれ、ヨコスカ・カルチャーの代表でもある「スカジャン」に敬意を表して乾杯!
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鎌倉の鶴岡八幡宮の裏手、県道沿いに県営駐車場の脇に無料休憩所がある。で、その無料休憩所には「御谷休憩所」という看板が掲げられている。
谷はやと、やつと読み、それに「御」が付いておやつと読む。ということはここはかつて幕府の所有地であったことが想像できる。
もともと、将軍家(つまりは幕府)に所属する機関や施設には「御(お)」を付けて呼ばれていた。
例えば、東京湾には御台場(おだいば)と呼ばれる砲台跡が、そして、浦賀には御用林である御林(おはやし)があり、これらは幕府の所有地であった。で、この御谷には昔、八幡宮に仕えた僧侶の住坊の二十五坊があり、また、明治初年には現在県営駐車場がある場所に八幡宮の祠官が「御谷館(おやつかん)」と呼ばされる資料館を建てたが明治19年に県道がこの地を分断し、御谷館は解体され、横浜の三渓園に移築されたが後年焼失してしまった。
そして時は流れ、昭和39年(1964年)に御谷が注目される。「昭和の鎌倉攻め」とも呼ばれる開発の波が鎌倉を襲ったのである。この時に開発され消失した山林は概ね500haにも達する。
この時に御谷の宅地造成に反対する市民が立上り、イギリスで行われていたナショナル・トラスト運動を手本とした運動を展開した。
御谷(鶴岡二十五坊)
そして、作家の大佛次郎さんをはじめ多くの市民の努力により、風致保存会が結成され、募金活動を展開し御谷(鶴岡二十五坊)の緑地1.5haを買い取ったのである。そして2年後の昭和41年には「古都における歴史的風土保存に関する特別措置法」(古都保存法)が成立した。これが日本初のトラスト運動であり、この御谷騒動が古都保存法制定の契機となり、御谷は「日本のナショナル・トラスト発祥の地」及び、「古都保存法発祥の地」となっているのである。
ある大手開発業者は開発した住宅地に桜を植えるのが好きである。その桜並木が今ではその街の名所にもなっているのだが、緑地をズタズタにした代償がこの桜なのか、と桜の時期 桜並木を見て思い出すのである。
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ワタクシが小学生の頃の遊ぶエリアは南は練兵場(不入斗公園)で東は重箱(安浦港)、そして北は大勝利山を経て三笠ビルであった。
で、その先のドブ板は子供は行ってはいけない“危険地帯”であり、たまにドブ板を迂回して臨海公園(今のヴェルニー公園)まで遠征して遊んだ。
この「三笠ビル」は三笠通りに面して大勝利山との間に昭和34年に建設された共同商店街で、全長は175メートル、総面積2890坪、鉄筋コンクリート3階建で総工費は2億7千万円である。
現在の商店数は63店舗で、昔ながら商店は減っており、携帯電話などの新しい形態の店舗が増えている。
ワタクシが一番通った店は豊川稲荷の入口にあった模型屋であり、ヤジマレコードでもよくレコードを買った。
地上3階建であるが2階部分は1階と同じで中央に通路(屋上)があり、昔はここでよく遊んだ記憶がある。
そして、三笠ビルには時空を超えて大勝利山に鎮座する豊川稲荷への入口でもある。この一帯は切り立った崖に沿うように急で、長い階段が延びており、独特の雰囲気がある。
また、昔、ここには滝があり、それが今の大滝町の由来となっている。
三笠ビル建設時も滝壺が基礎工事の障害となり、予定してた既成杭では施工出来ず急遽現場打ちの杭に変更になったという。
三笠ビルと大勝利山
この滝がいつごろのものか知る由もないが、大きな地殻変動で土地が隆起し、また陥没し、川が消えてしまったのだろう。それにしても現在の土地の形状からは川があったとがとても想像できないし、“大滝”という言葉が遥か昔から伝承されてきたことに大きな驚きを感じているのである。
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ワタクシ、幼い時から電車といえば「赤い電車に白い帯」の京浜急行しか乗ったことがなく、横須賀線はほとんど、例外なく鎌倉へ行く場合しか利用しなかった。
これは最近になっても変わらず、鎌倉詣にお出かけの時は横須賀駅から乗車する。
で、この横須賀駅だが、昔から“階段がない駅”として有名である。
ワタクシが子供の時には、行幸された天皇陛下に階段を使わせていけないからと言われてきたが、天皇陛下を見下ろす事のないように階段を設けなかったなど諸説あるようである。
まぁ、当時は終着駅でもあり、その後も海軍工廠への引込線が海側に伸び、下りは単線となり、このような形状のため、今でも線橋を設ける必要がなく駅構内に階段がないのである。実に元祖バリアフリーな駅なのである。
終着駅には階段がない構造の駅が多いのでは?以前訪れたことがある「門司港駅」にも階段はなかったと記憶している。
横須賀線は軍港への物資輸送を目的として建設が進められ、横須賀駅は1889年(明治22年)6月に開業した。また、戦争中は複線だった御殿場線を単線化し、そのレールを転用して横須賀~久里浜間を開通させたのである。
現在の駅舎は昭和15年に建てられたものだが、大正2年に改装が行なわれたときの面影を残しているといわれている。
駅舎のデザインは船、または軍艦をイメージされているようである。
隅を斜めに切り看板状に立ち上げて艦首に見立てており、屋根は棟を四角に囲み艦橋をデザインしている。
で、艦首の右の段状に立ち上げた壁は“波”であり、艦首の中央には軍艦なら菊の紋章を付けるところであるが、今は錨とカモメが描かれている。(以前は時計がはめ込まれていた、写真は去年のもので描かれる前で真っ白!!である。以前はカモメと灯台が描かれていた)
2番線の車止めの後ろにあるシンボルマークと同じデザインが駅舎正面に描かれている。
車寄せ部分ではラチス梁と円柱に柱頭、
で、このレールを使った柱だが改札口の先にある柱には“UNION D 1886 NTK”の刻印が読み取れる。
Dはドルトムント、NTKは日本鉄道会社の略であり、1886年にドイツはドルトムントで製造されたレールである。
円柱が多く使われており、またなだらかなスロープでそのままホームにアクセス出来る、“優しさ”を感じられる駅である。関東の駅百選認定駅になったのは、その“歴史”と“優しさ”ではないだろうか、とワタクシは感じている。
当然、横須賀風物百選でもある。
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鎌倉の御霊神社から長谷寺、光則寺に通じる小道がある。
そこの小道に面した民家の垣根から小振りの花が覗いていた。
垣根にタグが付いており。「とけい草」と書かれていた。
この花、花弁に対して正面から見るとその雄しべがまるで時計の針のように見えるのである。
横から眺めるとこの雄しべが飛び出て実に立体的な花である。
そして、英名はパッション・フラワーという。
このパッションは「情熱」ではなく、雄しべの形状を十字架に見立て「キリストの受難」を表している。
南アメリカを旅行中のスペインの宣教師たちが、発見したときの印象から名付けられたものである。
花言葉は聖なる愛
Holy love
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この時期の鎌倉には渋谷の交差点以上に混雑する場所がある。
紫陽花の名所はどこもかしこも人、人、人でごったがえ。
まぁ、これもこの時期ならではの風物詩であると言い聞かせ、
毎年御馴染みの「紫陽花巡り」に出かける。
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