ご近所探索

2016年2月17日 (水)

「よこすか都市景観フォーラム」

ワタクシの家系は親子3代横須賀生まれで祖母が大正時代に横須賀に移り住み戦後まで海軍相手の下宿屋やカフェを営んでいた。
戦後になると両親や叔母達は米軍基地の中で働き、祖母は海上自衛隊相手の下宿屋を同じように経営していたのである。
まさにワタクシの家系は基地と共に歩んできたのである。

まぁ、そのような時代背景が家族にはあり、従って海軍と関わってきた街の遍歴には大いに興味がある。
で、個人的にシコシコ調べてきてはこのブログに書き込んできたという経緯がある。

そんなワタクシにドストライクなイベントが先日開催れた。
よこすか都市景観フォーラム」というイベントで講演者の一人は山本 詔一さんで、
海軍とまちづくりというテーマで講演するという。
これは是非聴かねばならぬ、ということで参加してきた。

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オーディエンスの大半はオジイサマ、オバアサマ方である。
山本氏の講演内容は非常に興味深く、知ってはいるが、詳細までは知らなかった歴史を知ることが出来た。
彼の講演内容に関係するだろうワタクシのブログ記事は下記のようなものがある。

「横須賀高等女学校跡」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_733c.html

「横須賀駅」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_9699.html

「海軍料亭 小松」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_682f.html

ご近所探索「聖徳寺坂」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-de54.html

中島三郎助まつり、そして浦賀のあれこれ
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_a2ce.html

日米親善ベース歴史ツアー、そして「ジョージ・ワシントン」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-baaf.html

ご近所探索「枇杷(ビワ)山トンネル」
http://take4-san.cocolognifty.com/blog/2008/06/post_5620_1.html

三笠を想う
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_ec8f.html

ご近所探索「上町建築巡り」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_ac73.html

うらが道
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_d03d.html

ご近所探索「雨のうぐいす坂」
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_2d65.html

横須賀の近代建築-建造物が語る先進都市ヨコスカ-
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_78c9.html

まぁ、個人的にブログのカテゴライズをやってなかったので
「ご近所探索」というカテゴリーを作った。
      ↓
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/cat23965695/index.html

けっこうな項目がありますなぁ・・・・

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2014年11月13日 (木)

どぶ板通り(DOBUITA STREET)点景

ネタがない・・・
で、困った時の「どぶ板」頼み・・・・?
という訳ではないのだが過去に何度かネタにしている「どぶ板」点景シリーズ!?
過去のネタはこちら↓

「横須賀どぶ板繁盛記」&「ヨコスカどぶ板物語」

ドブ板「点景」 

ドブ板点景 

ご近所探索「ドブ板通り」点景 

まぁ、たいしたモノではない。
で、今回は先日一時帰国した際に撮影したモノである。
しかし、ベトナム戦争当時のオドロオドロした雰囲気は今はもうすっかり消え失せてしまい、
ファッショナブルな“通り”に様変わりした“DOBUITA STREET’なのである。

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2009年5月14日 (木)

ご近所探索「桃の湯」解体

ワタクシが幼少の時に通っていた銭湯「桃の湯」が先月より解体工事が始まり、今ではすっかりさら地になってしまった。

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この「桃の湯」の歴史は古く、今の中里トンネルが出来る前からある。
古い文献に豊の坪や不入斗に住む人達は切通しを通ってこの「桃の湯」に通っていたという記述がある。
この切通しとは今の図書館脇の道で夏場は風が通り抜けて涼しかったという。
そして中里トンネルが開通するのが昭和12年であるから昭和の始めには「桃の湯」は既にあったと思われる。

この「桃の湯」は中里のランドマーク的存在であった。
京急の下りの最終は金沢文庫止まりである。
で、ワタクシは数え切れないほどこの金沢文庫からタクシーで帰宅したのだが、タクシーに乗り込んで行き先を聞かれ、「中里の桃の湯の前まで」と言って分からなかった運転手はいなかった。

中里のランドマーク的存在だった「桃の湯」がなくなってしまった現在ワタクシはどうやってタクシーの運転手に行き先を言えばいいのか・・・・
あっそうか!「中里の桃の湯のあったところまで」と言えばいいのか・・・
何時までこの文句が使えるか分からないなぁ・・・・
あっそうか!久里浜行きの終電に乗り遅れなければいいのか・・・
ということをさら地になった「桃の湯」を見て思う今日この頃なのである。

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2009年3月14日 (土)

ご近所探索「安浦点景」

柏木田が関東大震災後だんだんと衰退していくなかで、安浦は拡大し、最盛期には150軒のカフェがあっという。で、ワタクシの祖母も戦前は早川質店の裏手でカフェを営んでいた

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そんな安浦だが当時の面影は今ではほとんど残っていない。

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2009年1月31日 (土)

ご近所探索「柏木田点景」

ご近所のお年寄り(かなり高齢)の方の中にはいまだにうらが道を「本道」、米が浜を「観念寺」、富士見町を「しんばか」と言う人がいるが、不入斗橋付近にあった「柏木田」を口にする人はいない。

「触れられたくない過去」であり「触れてはならぬ過去」なのかもしれない。

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明治時代、富国強兵の名の下に横須賀は近代軍港として位置付けられ、その軍港と共に発展してきたのが「遊郭」である。
この遊郭は最初大滝町にあったが、明治21年の12月、大勝利山近くの豊川稲荷付近から出火し延焼により遊郭は炎上した。
その後、遊郭は柏木田に移転し軍人や横須賀製鉄所の技師などの客で賑わったという。しかし、関東大震災で倒壊した建物が多く、遊廓としてはその頃から次第に衰退し、新開地の安浦そして田浦の皆ヶ作に移っていくのである。

そしてここ「柏木田」は山口 瞳の私小説「血族」の舞台でもある。
ちなみに山口瞳の母親方の菩提寺とワタクシの母親方の菩提寺は佐野にある妙栄寺である。

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柏木田という地名は町内会で残っており、隣には「穴守稲荷」がある。
これもここに遊郭があった証拠でもある。
羽田の穴守稲荷が有名である。
東京国際空港内の開墾地であった鈴木新田の堤防上の一祠に風浪の害をなくすために稲荷大神を祀ったのが始まりで、やがて、堤の「穴を守る」という連想から、女性のシンボルにも転化され、「女性の病気」を守るという解釈がなされたため、婦人病に悩む者や花柳界、遊郭の関係者にもてはやされるようになっていったのである。
そんな当時の信仰心からここに「穴守稲荷」が建てられたのだろう。

そして病気になってしまった女郎達は地下牢で放置されていたようで、富士見町の丘の上に密かに埋葬されたのである。
確かに「触れられたくない過去」なのかもしれない。

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2009年1月 8日 (木)

ご近所探索「安浦」

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山口瞳の「血族」では母親方の生家は遊郭であったが、ワタクシの母親方の祖母は戦前まで安浦でカフェを営んでいたという。
これはワタクシの母親が2歳頃の記憶なので詳細が不明なのだが、大きな玉突き台があったというから健全?なカフェだと想像出来る。
場所は早川質店の裏手だというから写真の通りらしい。

で、当時2歳だったワタクシの母親は店から飛び出して車に轢かれた。幸い車輪の間の車体の下に潜り込んでかすり傷程度で済んだのだが、この轢いたクルマというのが当時の横須賀市長の車で示談金をかなり頂いたという。
事故のあった日は大通りで工事があり、市長の車は抜け道としてこの裏道を通ったらしい。

記録を調べてみると当時の市長は10代目の高橋節雄氏であった。
ちなみに13代市長は小泉元総理の祖父で小泉又次郎氏である。

その後、祖母達は今の住所(中里)に引越し海軍相手の下宿屋を始め、戦後も昭和40年頃まで自衛隊相手の下宿を営んでいたのである。

つくづく基地の街ならではの歴史があるなぁ・・・と感じた今日この頃である。

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2008年10月 3日 (金)

ご近所探索「赤門」Part2


この「赤門」の右横には円柱形の石造の道標がある。
文久2年(1862)に建てられたものだ。かつてこの門前を江戸と浦賀を結ぶ主要道路が走っていた証である。また赤門の前は明治末まで白砂青松を連ねた美しい浜辺であった。しかし、一度嵐になれば風雨が激しく赤門から通ったという。

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「右大淳浦賀道、左横須賀金沢道」と刻む道標が当時を偲ぶように建っている。

明治18年に創業した海軍ご用達「小松」は最初、田戸の永島家の赤門前で営業していた。小松が創業した当時の田戸は浦賀への道は通じていたが、海岸線を通ってくる道はなく上町を越えてくる方法しかなかったので海軍さんにとっては不便な所であっと想像できる。
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                  当時の地図

この永島家だが、江戸時代の御台場建設の経験をかわれて、東京湾も請け負い第二海堡と第三海堡の施工時の記録が見つかっている。そして、この海堡で得た技術を活かし、明治44年(1911)から田戸海岸の埋立を始めるが工事は難航し、大正5年(1916)に工事とその利権を安田保善社に譲りわたすことになる。いかに難工事であったか、現在安浦公園(かつての安浦港前)にある供養塔に刻まれた犠牲者の数をみてもわかる。
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                安浦公園の供養塔

ちなみにこのあたりの地名「安浦」は安田保善社の「安」と港の意味の「浦」をあわせ、「安浦」と名付けられることとなった。

で、この朱塗りの「赤門」だが当時は将軍家から特別に許可をされなければ出来なかったのである。赤門はどのような事情でここへ置かれのであろうか。三つの説があるという。大津陣屋が閉鎖された時、そこにあったものを田戸庄へ下げ渡した。(当時、役所のものでないと、朱塗りは許されなかった)浦賀の御倉所の関係者の門が、ここに移された。 鎌倉八幡宮寺の門を浦賀へ、と古文書にあるので、それがここへ。

その歴史などは今後の研究に待つところが多いのだが、聖徳寺坂はワタクシの散歩道でもあり、時折脇に入り赤門前を通り過ぎると四季様々な表情を見せるくれるチョット“渋い”隠れた名所である。

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2008年9月18日 (木)

ご近所探索「釜屋金物店」

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横須賀中央駅から平坂を登る。最近ではこの近辺も商業ビルや高層マンションが建ち、古くからの商店がスーパーに変わるなど、昔ながらの景観が失われつつある。そんな中、平坂の途中の左側に出し桁造りで、側面が石積みの堅固な建物が立っている。釜屋金物店である。「釜屋」という屋号は浦賀の「釜屋金物店」から初代の鈴木斎治郎さんが暖簾分けしてもらい、明治33年にこの地に店を出したことに由来する。

現在の建物は関東大震災前に建てられたもので、家紋入りの特注瓦は震災の時にも落ちず建物も瓦も建築当時のままである。
側壁の石は石は房州産(鋸山産)で、防火対策に使ったという。
アーケードの上、2階部分には銅板張り亀甲型文様の戸袋と太めの桟で仕切られたガラス戸が見える。

中に入ると間口約7.6m、幅が60cmほどの大梁に圧倒される。この梁は長野の木曾まで出向いて探してきたものという。
また、斎治郎さんは横須賀市の第14代市長を務めた人で「市長の店」としても知られていた。

先代の時、戦時中金属はすべて供出、戦後は商品の仕入れに奔走。夫婦で背中と両手にいっぱいの手荷物を抱え、川口市との間を日に何回も往復したという。

ワタクシも七輪やら餅網などをよく買っていた。商店街の活性化のために頑張ってほしい実に味のある商店である。

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2008年9月11日 (木)

ご近所探索「八百幸本店」

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聖徳寺坂には一段高くなっている道がありこれは旧道(浦賀道)である。
その通りには商家の面影を残す出し桁造りの家が数軒ある。
その中でも出し桁造りの特徴をよく表しているのが「八百幸本店」である。

2階の手摺に一字づつ木彫りの看板をはめ込んであり印象的である。
基礎には電信柱のような松杭を多数打ち込み、内装や建具には欅材が多く使われている。
この「八百幸本店」は小田原の大工が建てたそうで、戦前には2階で宴会や結婚式も行なわれていたという。

当時、聖徳寺坂下には海軍の下宿を営む家が多くあり、また坂の手前には池之端商店街もあり、大層賑わっていた光景が目に浮かぶのである。

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2008年9月 7日 (日)

ご近所探索「聖徳寺坂」

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聖徳寺坂は上町の税務署脇から安浦町の国道16号を結んでいる。

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                    坂下から臨む

この安浦町はかつての公郷町を埋め立ててで誕生した町である。
明治39年に計画され、石渡担豊、永島庄兵衛(田戸庄)らの地元有志の協力によって行なわれ、途中で安田保善社に事業を譲り渡し10数年の歳月を要し大正11年12月に完成した。この時に出来た安浦港(重箱)はかつてワタクシの遊び場でもあった。

そしてこの埋め立て事業と同時に「聖徳寺坂」も造られた訳で、埋め立て前には坂は2つあったという。
一つは聖徳寺前から今の京急線ガードをくぐる坂で道幅も広く馬車が通った。
もう一つは谷間の細道で「赤門」脇に下りる坂で震災で埋まってしまった。
この細道の脇に川が流れていて、1、2丁目の境だったという。

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埋め立て工事が完成した当時、聖徳寺坂の周辺には安田保善社所有の住宅が100戸あったが、震災で大部分が倒壊してしまったという。
そして戦前から戦中にかけては海軍の下宿を営む家が多く座っていても商売ができたほど繁盛していた。
坂の両側の下は広くなっているが、これは終戦の年に建物の強制疎開があったからである。
                        (坂道風土記より)

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現在、その道には使われなった階段がいくつかあるのだが、なんだか過ぎ去った時を封印するような印象を与える階段である。

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