昔の記憶

2015年2月28日 (土)

昔(カメラ)の記憶 マヤ「コパン遺跡」

インドネシアのネタもありそうでなさそうなので・・・
先日の続きということでホンジュラス「コパン遺跡」のネタでいきませう。

ロアタン島旅行始末記?は先日過去の記事を改稿しアップしたのだが、ホンジュラスのもう一つの観光地である
「コパン遺跡」については書こう書こうと思って早15年以上が経過してしまった。
まったくもってタンザニアのイカンガーである・・・・
(しかし、このフレーズも使い古した感があるなぁ・・・)

で、今回は蔵を漁りながら、かつ30年前の記憶を手繰りつつ書き出したのだが・・・
ほう~最近ではコパン・ルイナス市観光課の公式日本語ホームページがあるのか!
まぁ、昔からJICA関係の支援がホンジュラスにはなされてきているので、これも海外青年協力隊の手によるものだろう。
かくゆうワタクシも無償援助プロジェクトでこの地に居たのである。

この「コパン遺跡」だがアクセスが非常に悪い。ホンジュラス在住者でさえ日帰りは無理で近郊のホテルに宿泊する必要がある。
アクセス的には隣国ガテマラのグテマラシティーからバス、あるいは車で入るのがよい。
あとは、マイアミからサンペドロ・スーラ経由で入るのがベターである。

コパン遺跡」は1980年には世界遺産に登録されており、さぞや有名な観光スポットで観光客も多いのだろう、と
想像していたが、我々が訪れた時には観光客は我々だけであった。
以下の写真をご覧になればわかりますが、人(観光客)が一人も映っていません。
実に寂びれた世界遺産である。

で、最近のマヤネタではマヤの暦が2012年までしかないということで「2012年12月に世界が滅びる」という預言?噂?が
全世界を駆け巡り、これを題材にした映画まで製作されていたが、最近では「2015年に人類が滅びる」という噂があるらしい。
まぁ、マヤ文明に関してはまだ解明されていない謎が非常に多く、これもガセネタだと思うのだが実に謎が謎を呼ぶ「マヤ文明」なのである。

以下に当時の写真を記載しますが、説明は省略します。というか覚えていない・・・・?

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コパン王朝古典期の球戯場
ガイドの説明では生贄の首をボール代わりにしてサッカーのような試合を行っていたらしい。
まぁ、記憶が曖昧で定かではない・・・・m(__)m

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マヤネタでは以前に「古代マヤの遺跡」、「インカ・マヤ・アステカ展」や「トゥルム」などを記事として記載してきたが、
大物の「チチェン・イッツァ」も訪れたことがあり、これはまだ記事にしていない。
あと「テオティワカン」(これはアステカ文明)も画像が蔵に眠っている・・・・・これもそのうちアップしませう。

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2015年2月26日 (木)

昔(カメラ)の記憶 『カリブ海 ロアタン島』 Part-2

「カリブ海のぶったまげホテル  その2」

ロアタン島、正確にはロアタン諸島「ISLA DE BAIA ROATAN」なのだが、
我々はその中の一つの島に行く。

実はこのロアタン諸島、映画のロケに使われたことがある。
スティーブ・マックイーンとダステイン・ホフマンが共演した
パピヨン」という映画で、切り立った断崖絶壁の無人島からの脱出ものという設定だったが、
我々の行く島は珊瑚礁のラグーンに囲まれた島である。

ダコタは高度を下げタッチダウンしたが、振動が激しすぎる。
で、よく外をみたら、ナント、滑走路が舗装されていないではないか!
赤っ茶けた地盤が露出しており、ダコタは赤い土ボコリを巻き上げながら滑走している。
(エライところに来てしまった!)
訳がわからない不安が一瞬脳裏をかすめる。

ダコタから降りて周りを見ると屋根をヤシの葉で覆った小屋が一軒
あるだけである。小屋といっても柱が4本とヤシの葉で覆った屋根だけで、
中に小さな机があるだけである。

ここはアメリカからの発着便がある、インターナショナル・エアポートのはずでは?
ということはイミグレはあの小屋でするのか?
そんな事を考えながらホテルの送迎ジープ?にのる。
この送迎ジープには屋根も座席もない。
ホテルの迎えの者は何の躊躇も、いたわりの言葉もなく我々を後部の荷台に乗せた。
(余談ではあるが、私はネパールで送迎牛車なるものにも乗せられたことがある)

送迎ジープは寂びれた町を抜け、山道に入った。どうやらホテルはこの山向こうにあるらしい。
山道は荒れに荒れていた。
雨水が削り取った溝が20センチ以上の段差となって幾つもの筋を作っている。
この上をジープは横滑りしながら走る。

高度の運転テクニックも必要だが、ここでは高度の乗車テクニックも必要だ。
重心を低くし、荷物を確保しながら、ジープの車体動作を予想して、
振り落とされないようにしなければならない。
右手に朽ち果てたディスコの残骸が見えた。(エライところに来てしまった!)
確信に近い不安が脳裏をかすめる。

やがて山道は急な下り坂になった。(ホテルは近い!)と思った瞬間、
ジープはジェット・コースターの如く、滑り落ちていく。
木々の合間に海が見えたかと思うと、ジープは急にカーブを曲がり抜けて行く。
これはまるで「スペース・マウンテン」ではないか!
いくつものスルドイカーブを曲がり抜け、ジープはやっとホテルの前に着いた。

目の前のホテルを見て私はハッキリ確認した。
(エライ所に来てしまった!もう帰ろう!)と・・・・
何と木造平屋建てで、大小2棟の小屋があるだけではないか!
左の小さい小屋は8畳程度、右の大きい方でも20畳程度の小屋である。

オロオロとうろたえている私を尻目にホテルの従業員らしきアンチャンが荷物を
運んでいってしまった。
セニョール○×もスタスタといってしまった。トボトボと後ろを行くワシ。
どうやら小さい小屋が管理棟らしくここでチェックインをする。
(ホテルの名前は忘れてしまった)

アンチャンが「ここがメシを食う所、腹が減ったら来るとヨロシイ」と大きい
小屋を指差して我々に説明するが、、、、。
(オイオイ、じゃ我々はどこに泊まるんだ!)と思って大小の小屋を抜けると、
なんと、目の前には今まで見たこともない光景が広がっていた。

「うわぁ、、プールみたい」とセニョール○×が嬉しそうに呟いた。
本当にプールみたいなのだ。いや、プールよりも綺麗である。
色とりどりの珊瑚がキラメく水面に揺れている。
目の覚めるようなブルーの熱帯魚の群れがゆっくり泳いでいる。
我を忘れてボーと見ていると、アンチャンはおもむろにボートに乗り我々にも
乗れという。どうやら50mほど先の小島に行くらしい。

こちら側がパブリックスペースでレストランなどがあり、ボートでコテージのある向島へ渡る。

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こちら側がコテージがある向島(プライベートスペース)である。

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天然の水族館の上をボートはゆっくり進む。
小島の桟橋には鐘が釣り下がっており、「メシを食いにレストランに行く時は
この鐘を鳴らすとヨロシイ。船が迎えに行くから」とアンチャンはぶっきらぼうに言った。
小島には10ほどのコテージが点在していた。

どれもがほどよく離れており、珊瑚礁の上に迫り出して建てられている。
本島のレストランがあるパブリックスペースと小島のコテージがあるプライベート
スペースに完全に分離されているみたいだ。
珊瑚礁の上に建てられたコテージは全て木造である。

驚く事勿れ!トイレの便器も便座も洗面台も全て木で作られている。
窓は木のジャロジー、コテージ入り口のドアノブも木である。
もう木、木、木のオンパレードである。
そしてここには電気・水道もない。当然照明もテレビもない!カラオケもない!
レーザーディスクは何者だ!(いかん、、吉 幾三が入ってしまった!)

明かりはランプ。水は雨水を溜めて使う。
トイレは水洗で浄化槽処理しているみたいだ。
ここにあるのは目の前の綺麗な海だけである。
眠たくなったら寝て、腹が減ったらメシを食い、泳ぎたくなったら目に前の
珊瑚礁の海に飛び込む。

何の義務感もスケジュールも時間さえもない。
太陽が出て沈むという自然の摂理のみが我々の営みの全てということに気づく。
コテージの前のサンデッキに寝そべり、ロンというトウモロコシから作った
酒を飲みながら、沖あいのコバルトブルーの海を眺める。
ゴロゴロとそのまま転がって海に落ちる。と目の前には大小様々な原色の熱帯魚が
珊瑚礁の中で見え隠れして泳いでいる。

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又ここには30フィート以上のクルーザーが数隻あり、ダイビングやトローリングができる。
ダイビングは出来なかったのでトローリングをやった。
シイラに似た50cmぐらいの魚を釣り、刺し身で食いたかったが・・・
醤油がないではないか。ウ~残念、、だがグリルもウマイ!!
(その後、アメリカでダイビングの免許を取り、この様なナチュラルリゾートに
行く時は必ず醤油の小瓶を持参するようになった)

夜は波音のBGMとロンとランプの灯火の中で採れたてのシーフードを食べる。
朝は波音が遠く聞こえ、熱帯特有の小鳥のさえずる中でゆっくり起きる。
ここに3日間いたが私の中ではここが最高の5つ星ホテルである。

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このようなナチュラルリゾートが東南アジアにもあり、いくつか泊まったことが
あるが、最初に体験したこのホテルの印象がキョーレツな分だけ脳裏に
刻み込まれている。しかし、このホテルも先ほどのハリケーンで飛ばされて
しまったのだろうか?是非また行きたいホテルである。
(日本からだと片道2日はかかるだろうな)

このようなナチュラルリゾートでは・・・着いたら時計をはずすこと。
あと気に入りの作家の本と醤油の小瓶をもっていくとよい。

                         THE END

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で、この質素な?リゾートホテルだがネットで調べても情報がまったくない。
ハリケーンで飛ばされてしまったのかもしれない。
それにしてもあの木製の便器や便座、そして洗面台が懐かしい・・・
まぁ、30年以上も前の話なので「ロアタン島」も今ではだいぶ様変わりしてしまったことだろう、
としばし感慨に耽る今日この頃なのである。

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2015年2月25日 (水)

昔(カメラ)の記憶 『カリブ海 ロアタン島』 Part-1

先日の記事で「ロアタン島」のことに触れたが今回はその続きである。

ダコタを想う part-2 『鷲は舞い降りた』
http://take4-san.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/part-2-fe3b.html

なお、ここに掲載されている旅行記?は15年以上前にあるMLに寄稿したもので、
ほぼ原文のままですが、本名などの固有名詞は伏字で表記しております。

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「カリブ海のぶったまげホテル  その1」

以前、私が住んでいたホンジュラスという国に観光資源はないだろう!
と思っている、アナタ!バカにしてはいけません。あります。

1、コパンのマヤ遺跡 しかし、ここはよほどの考古学バカでないと行かないところ。

2、ロアタン島  ここも、アメリカからのチャーター便のダイビング客しか行かない。

要するに観光資源はあってないようなものということになる。
しかし、せっかく地元に住んでいるのに知らないのではご近所の手前示しが
つかないということで重い腰を上げて、ロアタン島に行くことになった。
(コパン旅行記はまたのちほど)

同行者は「セニョール ○×」、この人はプロジェクトの通訳で、ペルー生まれの日系三世。
趣味は“宗教”と“女”という変わった人である。
彼はペルー時代、吉永 小百合の通訳として1週間行動を共にしたことがあり、
また、日本から来る要人の通訳をペルー政府から頼まれてイヤイヤやっていた人である。
(小百合ちゃんの場合、ニコニコしてやったらしい)

で、飛行機に乗る為、テグシガルパの飛行場に行き私の目に飛び込んできたのは、
ナ、ナント!DC-3ではないか!通称ダコタと呼ばれるこの双発機は第二次世界大戦中、
輸送機として大活躍したヤツだ!
ジャックヒギンズの小説で有名ではないか!
(コイツに乗るのか)と思わず飛行機の前でVサインの記念写真を撮ってしまった。

タラップを上って機内に入って途端、「ウッ、、暑い!」
しょうがない、昔の飛行機だ。空調なんかなくて当たり前だ!と
シートに腰掛た途端、「ウッ、、狭い!!」
しょうがない、輸送機を無理矢理旅客機にしているんだから、と無理矢理自分を納得させる。

見回すと客席は30席程度である。
足に何か当たるなと思って下を見たら、後ろの人の足がシートの下から出ているではないか!
何とか体をシートにくくりつけると、
ステュワーデス(おおっ、、いるではないか!ステュワーデスがしかもキレイだ!)が、
何やら前の方で客に指示をしている。
どうやら客の背格好を見て、「オマエはココ」、「オマエは向こうに行け」と
飛行機が飛行中に傾かないように客の体重配分をしているらしい。
私達のところに来て、左右の客を見比べた。

「あなた達は前のあそこの客とチェンジよ」と言った。
(ムッ!俺達はそんなに太ってはいないぞ!)と思ったが、
変なイザコザを起こして、飛行中に上空から突き落とされたのではかなわない。
素直に従って座席を移動する。

プロペラ機のテイクオフというのはフワッとした感じであるが、何しろやかましい。
耳元で「バババババババババババババババババババババババババババババ」と
自動小銃を100丁まとめて連射されている感じだ。
隣りの「セニョール ○×」の話声が聞こえない。

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機内はものすごい湿度で汗がダラダラでる。申し訳程度に小さな扇風機が4つ廻って
いるが、何の役にもたっていない。
「セニョール ○×」が私の脇をこずいて、前を指差している。
何と、操縦席と客席を仕切るドアが壊れていてバタバタしている、

DC-3の操縦席

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ドアが開いたその瞬間・・・私はとんでもないものを見てしまった。
何と形容したらいいのだろうか!?
見てはいけないものを見てしまった?
我が目を疑う?
あってはならないことを見てしまった?
どれもその時の驚きを表現できない。

なんと・・・ビールを飲みながら運転、じゃない操縦しているのだ!!
「飲酒操縦」・・・新しい日本語だ!
しかし、使う機会はほとんどないだろう。
副操縦士と笑いながらビールを飲んでいる。

しかも、この運チャン、じゃない操縦士は途中給油で降りた、
サンペドロ・スーラのカフェでもビールを飲んでいた。
とんでもないヤツだ!
客のほとんどがこの光景をみているが、別段気にしている様子はない。
いくら、アスタ・マニャーナの御国柄とはいえこれにはぶっ飛んだ!

給油を終えたダコタはカリブ海へと入った。
下を見るとコバルト・ブルーの綺麗な海が広がっている。
前方に雨雲が見えた。(スコールの中に突っ込むな)と思った数分後、
ダコタは突っ込んだ。揺れる、のは我慢しよう。

困ったのは雨漏りすることである。室内パネルの継ぎ目からは漏れるわ、
天井からはポタポタ落ちるわで、飛行機に乗るのに洗面器が必要になるとは
夢にも思っていなかったが、そうこうしているうちにスコールを抜けた。
しばらくすると、眼下に目指すロアタン諸島が見えてきた。

以下 Part-2に続く

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2013年9月11日 (水)

カメラの記憶「1986年 冬のニューヨーク」

今日はSeptember eleventh、9月11日である。 
2001年のその日、私は北九州は小倉の紫川の辺にある中華レストランで
同僚の誕生日を祝っていた。

そして翌朝のニュースでニューヨークの惨事を知ったのである。
そのニューヨークに私はいた。
時は1986年。

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曇天の空を飛ぶ渡り鳥
そしてワールドトレードセンタービル。

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そのワールドトレードセンタービルから
ブルックリン橋を望む

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そしてガバナーズアイランドとリバティーアイランドを望む

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街角スナップ
ニューヨークの冬は寒い

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2013年9月 8日 (日)

我が音楽の記憶“American Pie"

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先日、モールの中をウォークマンを聞きながら買い物をしていたらまた記憶のスイッチが入ってしまった。
記憶の琴線に触れたのはドン・マクリーンの“American Pie"である。
そして脳裏に浮かんだのは「ジェンカ」で踊っている光景であった。

その「ジェンカ」を踊っていた場所はマイアミ大学の中にあるクラブ“Rathskeller”「ラスケラー」である。
時は1980年代の中頃、私はマイアミ大学の学生であった。
「ラスケラー」はカフェテリアとプールサイドの間を通りその突き当りに建っていた円形の建物である。
入口で学生証で年齢を確認して入れるクラブで夜はビールが提供されていた。
(ちなみにRathskellerとはドイツ圏における地下食堂・ビアホールのことらしい)

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オレンジボウルのオープニング

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チアリーダーのオネーサマ方

オレンジボウルでフットボウルの試合があった晩はここで祝勝会が行われていた。
ハリケーンズは地元オレンジボウルではほぼ無敗だったので祝勝会なのである。負けた記憶がない。
そしてラスケラーのそして祝勝会のラストソングが“American Pie"だったのである。
この曲が流れだすと1階の中央フロアに皆が集まりだし、曲に合わせて「ジェンカ」を踊るのである。
「ジェンカ」とは有名なフィンランドのフォークダンスで、日本では坂本 九の「レット・キス (ジェンカ)」
が有名であり、列になって足を上げたり前後にジャンプして踊る例のアレである。

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ある日の夜のラスケラー内部の図
テーブルや椅子は片付けられてディスコと化している

で、ワシラはその光景を2階のテーブル席からゲームをやりつつ冷ややかな目で見降ろしていたのだが、
ある日、気が付いたらその列に加わって踊っていたことがある。
何故ラストソングが“American Pie"だったのか?
そして何故“American Pie"に合わせて「ジェンカ」を踊るようになったのか?
今では知るすべがないのだが、当時の風潮そして学生気質に合っていたのかもしれない。

この“American Pie"だが歌詞が非常に謎めいている。
マルクスだの神だのそして核シェルターだのの言葉が韻を踏んで散りばめられている。
そしてリフで繰り返される
“The day the music died” 「音楽が死んだあの日に」
これはロックンロールの若きスターであるバディー・ホリーが飛行機事故で死んだことを意味しており、
これ以降この飛行機事故の日を指す代名詞となっている。

このバディー・ホリーだが、私はリアルタイムでは知らない。
知ったのは大瀧詠一の「ナイアガラ・ムーン」のライナーノーツからで、
アルバムの中に「シャックリママさん」という曲があり、
これがシャックリ唱法の生みの親「バディー・ホリー」に捧げた曲だと書かれていた。
で、このアルバムがきっかけでワタクシも楽しきアメリカンポップスの世界へと導かれてゆくのだが・・
話は戻り、“American Pie"である。

実はワタクシこの“American Pie"をライブで聴いたことがある。
場所はボカラトン郊外の公園で当時のアメリカンフォーク・ミュージック界の大御所が出演していた。
まぁ、フォーク・ミュージック界の大御所とはいえ当時のアメリカではフォーク・ミュージックは下火で
「Wham!」や「Madonna」などが全盛の時代である。
チケット代が5ドルとか10ドルでオーディエンスもまばらでワシラは芝生に寝転んで聴いていた。
そういえば「ポール・バターフィールド」や「ジョーン・バエズ」も出ていた・・・・
ドン・マクリーンさんは背が低かったなぁ・・・・

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ドン・マクリーンさん

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反戦の女王「ジョーン・バエズ」

当時は無料、もしくは10ドル程度のチケット代で10代の頃の夢の人と出会えた。
マイアミ動物園内で行われたコンサートは動物園の入場料を払えばよかった。
出演は「ラムゼイ・ルイス」に「レオン・ラッセル」 「ジョニーウインター」などなど・・・
しかし、動物園で「レオン・ラッセル」 「ジョニーウインター」とは渋い。
ある日、移動遊園地の仮設テントの中から聴こえてきたのはブラスロックの大御所「BS&T」のスピニング・ホイールだった。
ココナッツ・グローブの公園ではジャズ・フェスティバルがあり、「ハービー・ハンコック」や「ディジー・ガレスビー」が目の前で演奏していた。

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ハービー・ハンコック

そして

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ディジー・ガレスビー

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で、オーディエンスといえばすっかり寛いでいる

週末にはどこかで無料のコンサートが必ずあった。
これを「T・G・I・F」でチェックして出かけるのである。
「T・G・I・F」とは「Thank God, It's Friday」の略で、新聞の週末版に付く週末情報誌のことで
日本でいうと「ぴあ」の週末版である。
そしてビールを飲みつつほろ酔いで音楽と戯れるのである。
(この新聞とはWEST PALM BEACH POSTのことである)

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ある日曜日に行われたブルーグラスのコンサート

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ある街のある日曜日の路上ライブ

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踊る子供達

そして話はまた“American Pie"に戻るのだが、
この曲がヒットしたのは1972年である。
この年は他には
アメリカ「名前のない馬」
エルトン・ジョン「クロコダイル・ロック」
カーペンターズ「トップ・オブ・ザ・ワールド」
ギルバート・オサリヴァン「アローン・アゲイン」
シカゴ「サタデイ・イン・ザ・パーク」
スリー・ドッグ・ナイト「オールド・ファッションド・ラヴ・ソング」
ディープ・パープル「ハイウェイ・スター」
ミッシェル・ポルナレフ「愛の休日」
レオン・ラッセル「タイト・ロープ」
などがヒットし、
そして日本ではとぴんからトリオ、小柳ルミ子、ビリーバンバ、よしだたくろう、天地真理などが活躍していた。
古き良き音楽に満ちていた時代である。
そして時が流れマイアミで“American Pie”をBGMに「ジェンカ」を踊る。
また時が流れてそんな記憶がインドネシアで蘇る。

“American Pie”は古き良き時代の音楽を思い出せてくれる“スイッチ”なのかもしれない。

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2009年6月23日 (火)

昔の記憶「私は武田鉄也が嫌いでした」

   Photo

10年前、ニッポン放送で「高嶋ひでたけのお早う!中年探偵団」という早朝の番組があり、ワタクシは通勤電車の中で毎朝聴いていた。
その番組の中に「ひでたけのお便り日本晴れ」というコーナーがあり、ある日投稿した手紙が読まれたことがあった。

以下その全文を記載
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※これは読まれても読まれなくてもいいですが、高嶋さんには渡してください。

「私は武田鉄也が嫌いでした。」
それは今から25~26年前のことです。当時高校生だった私はフォークソング全盛の真っ只中におり、ご多分に漏れずギターを買い、ひたすら練習の日々を送っていました。
そんな中、「駅前のデパートの屋上でライブがあるから行かないか?」と悪友に誘われました。海援隊とかいうグループのライブらしく、面白そうなので、授業をサボり、横須賀中央という駅前にある、今はなきミドリ屋の屋上までノコノコと出かけて行きました。

私と悪友2人は一番前の席に座り、周りを見回すと客はまばらでそれもオバチャンばかり、普段の日なので当然学生はいないので学生服姿の我々は目立っていたようです。
登場した「海援隊」の武田鉄也が歌う「母に捧げるバラード」は今までのフォークソングの常識にはない泥臭さが強烈でした。

しかし、さらに武田鉄也の強烈な一言が私を襲ったのでした。
「そこのオジサン!ガッコウサボって何やってんの!」
「ガーン!」た、、確かに私の顔はふけて見られる。しかし学生服を着ている若者になにもそこまで言わなくていいものを、、、。シャイで純情な私は一瞬頭の中が真っ白になり、周りの視線が集中しているを感じ、穴があったら入りたいほど学生服の中で赤くなり小さくなってしまったのです。

それ以来、私は武田鉄也が嫌いになったのですが、先日その悪友と会う機会があり、確認してみたところ悪友曰く、
「それは武田鉄也ではなくて高島ひでたけ、だよ」
エッ!ウッソー!ホント!訳もなく私の胸の中は女子高生用語でいっぱいになりました。
確かに同じ時期に前後して同じ場所で高島ひでたけさんが他のバンドの司会で来ていたことがうっすらと記憶の中で甦りました。

武田鉄也の強烈な個性と、高嶋さんの強烈な一言が記憶の狭間でいつしか同化して武田鉄也の強烈な一言として確かな記憶となってしまったのでしょう。
しかし、長年培ってきた武田鉄也嫌いは直りそうにもなく、またすぐに高嶋嫌いになるわけでもなく、そんな複雑な心境で毎日、放送を聞いているのです。
高嶋さん、覚えてますか?

そして、今度武田鉄也さんに会われたら、私の代わりに謝ってください。
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という内容で記載されていることは全て事実である。
で、これは1999年の8月13日の放送でオンエアーされた。

そして千葉産の新米20Kgが数日後に送られてきた。
が、しかし、ワタクシはこのオンエアーを聴いていない!
当日は前日の激務のため通勤電車の椅子に座り眠りこけていたのである!
この内容で放送されたことは事実のようである

まぁ、なにはともあれ“昔の話”である。

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2009年6月 1日 (月)

東京大学三崎臨海実験所、そして油壺水族館

東京大学三崎臨海実験所、そして油壺水族館

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           三崎臨海実験所

   A__2

           旧油壺水族館

油壺の突端にある荒井浜海水浴場に下りていくと左手に「東京大学三崎臨海実験所」がある。
そしてその隣に2階建てのタイルレンガ張りの立派な建物がある。
今では閉館してしまった臨海実験場付属の油壺水族館である。
ワタクシは小学校の遠足でこの水族館に来た記憶があり、手前の池で亀が泳いでいた。
なんだか実に懐かしくなる。
しかし、この水族館は近接する油壺マリンパークが開園し客足が遠のき昭和42年に閉館した。

そして、25年以上前になるがこの臨海実験所の宿泊施設や地殻変動観測所の施行に携わったことがある

思い出深き地「油壺」なり・・・・

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2009年2月 9日 (月)

NTT横須賀研究開発センター(旧日本電信電話公社 横須賀第2電気通信研究所)

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野比、長沢の里山を散策した後は遠くに見える「NTT横須賀研究開発センター」まで足を伸ばす。
実はワタクシこの建物の建設に携わっており、他に地元三浦半島には防衛大学校宿舎油壺の東京大学地震研究所などの施設を作った。

で、この「NTT横須賀研究開発センター」は当時は日本電信電話公社(電電公社)の横須賀第2電気通信研究所で通称「第2通研」と呼ばれていた。
何故ここに通信研究所が出来たかというと電波障害が少ないからという理由で、第1電気通信研究所が武蔵野だったと記憶している。

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今では「通研通り」という道路にその名残がある。
この道も当時は舗装されていない農道の砂利道だった。

この建物は1期と2期に分けて施工され、ワタクシは2期工事に従事していた。
そして、この時に携帯電話のプロトタイプという模型を見せてもらったことがあるが、「コンバット」(古い話だな・・・)に出てくるような無線機のような形をしていたのである。
研究員の方に「これが将来の電話です」と説明されたが当時のワタクシはイマイチ理解できていなかったと思う。

その8年後、香港に赴任した時に、ビジネスマン達が手にモトローラ社製のデカイ携帯を持ったおり、このプロトタイプの模型によく似ていたのを思い出す。
YRPが携帯電話発祥の地といわれているが、それはここ第2通信研究所(当時)で生まれた、とワタクシは思っている。

それにしてオジサンは今の携帯電話の進化についていけないなのである。

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2008年7月12日 (土)

昔の記憶「アイススケート場」

昭和30年代に生まれたワタクシにとって少年期の娯楽施設といえば映画館・アイススケート
場・ボウリング場であり、青春そのものであった

映画館は東宝映画劇場、大映映画劇場、そして「丸井の別館」、通称「横ビル」には 横須賀劇場、有楽座、名画座、スバル座の4つの映画館が入っており、東京よりも1ヶ月くらい遅れの新作が2本立てで上映されるような地方の映画館であった。
これらの映画館にはお世話になりました。

で、ボーリング場は横須賀中央駅の近くに2つあった。

そしてアイススケート場は旧商工会議所、今のさいか屋東館のところにあった。この場所は昔魚市場の跡地で、元々有った冷却設備を利用してアイススケート場を建造した。
三笠橋を挟んで今のさいか屋駐車場も魚市場であった。

   Photo

真ん中の通りが昔の三笠橋であり、この右側に魚市場、左側にスケート場があった。

このアイススケート場も大変お世話になった。

その後、今のダイエー(ショッパーズ)が出来る前の跡地にもアイススケート場が建てられたが、ダイエーが出来るまでの仮設的利用の短期間であったと記憶している。

まぁ、何はともあれ、横須賀のスケート場、箱根は強羅のスケート場、そして富士急ハイランドのスケート場にはまさに青春そのものであったのである。

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2008年7月 9日 (水)

「なぎざ」7.8月号

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今月の始め京急の各駅で配布されていた京急の情報小冊子「なぎざ」7.8月号の特集は「海と映画 三浦半島、海のあるまち」ということで三浦半島の海を舞台にした映画を紹介していた。

小津監督作品の「晩春」「麦秋」は由比ガ浜と思われる海岸が、
日活の「狂った果実」「太陽族」は逗子・葉山が、「甦る金狼」では猿島が、
また、「海ゆかば」は記念艦「三笠」で撮影され、北野監督の「あの夏、いちばん静かな海」では久里浜や馬掘海岸が登場する。

最近では「同じ月を見ている」は北下浦海岸で、「図鑑に載っていない虫」「恋空」は和田長浜海岸で、また「歩いても 歩いても」では三浦海岸や長沢で撮影されている。

まぁ、ここ数年は日本映画は活気を取り戻している。で、東京から近い横須賀や三浦市ではテレビドラマやCMや映画などの舞台の使われている訳なのだが、ワタクシ的には古い映画で恐縮なのだが「豚と軍艦」がダントツの一番なのである。舞台は「ドブ板」で昔の安浦や埋立前の馬掘海岸、そして観音崎などが記憶の片隅から甦るが如く映像で実感できる。

また、映画ではないが「タイムトラベラー」で有名?な「NHK少年ドラマシリーズ」の「つぶやき岩の秘密」が油壺、三戸浜、荒崎を舞台にしている。この「つぶやき岩の秘密」が放映されたのは昭和48(1973)年である。
タイムトラベラー」は昭和47(1972)年でこれはリアルタイムで見ていたが「つぶやき岩の秘密」を見たのはつい最近のことである。で、昭和の良き雰囲気が漂う映像を見てオジサン感激!また音楽が懐かしく、当時若手で気鋭の樋口康雄が実にモダンな音楽を提供している。

そして、このモダンな音楽とNHK的服装センスのとアンバランスというかミスマッチさが実にシュールである。
また、原作は山岳小説家である新田次郎で、主題歌は石川セリが歌う「遠い海の記憶」という全体に流れるこの不思議なミスマッチさがシュールな昭和の“時代”を醸し出しており「オジサンゴコロ」を妙にくすぐるのである。
(「豚と軍艦」「つぶやき岩の秘密」のDVDは中央図書館で借りられる)

また、田中麗奈主演の映画「ドラッグストアガール」というレア?な映画では「池之端商店街」が舞台である!
まぁ、映画の内容ウンヌンよりは何故か?しみじみと哀愁を感じる映画であり、商店街なのである。

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