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2008年4月26日 (土)

咸臨丸フェスティバル

咸臨丸フェスティバル
毎年この時期の恒例のイベントである。
昨年は市制100周年、ということで国際交流フェスタの一環として行なわれた。

今年は住友重工浦賀工場の歴史や、中島三郎助の足跡や浦賀・大津の寺院の紹介、海上保安庁の紹介なども併せて展示されていた。

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住友重工浦賀工場の歴史は興味深い。

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そしてこれらは進水式の支綱切断の儀式に使われた斧である。
右が日本丸のもである。
この斧はその艦船ごとに新しく作られるため、同じものは二つと存在しない。日本においては銀の斧を使用することが多い。

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で、住友重工が施行した最も著名な鉄骨工事は国会議事堂である。

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浦賀・大津の寺院の紹介
これは以前、大津行政センターで展示されたものと同じであった

アメリカのペリーにより開国した幕府だが、オランダもアメリカに対抗して幕府に働きかけ長崎に海軍伝習所を設立させた。
1855(安政 2)オランダ海軍士官ペルス・ライケン以下22名の指導の下、オランダから贈られた軍艦スームビング号(観光丸)で第1期伝習がおこなわれた。この時の伝習生の学生長を務めたのが勝麟太郎(のちの海舟)である。
で、第2期伝習のためオランダより教官たちを乗せて来日したのがヤーパン号である。でこれが後の咸臨丸となる。

で、咸臨丸は日米修交通商条約批准のため、使節をのせて日本で初めて太平洋を横断した船として思っているお方がいますがこれは間違いである。使節が乗り込んだ船はアメリカが提供したポーハタン号である。
このポーハタン号はペリー艦隊の4隻の中の1隻でもある。

咸臨丸はこの使節団を護衛するための随行艦としてアメリカに渡り、艦長は勝海舟が務めアメリカ人の助けを受けながら、幕府の船として初めて太平洋の横断に成功したのである。
また、咸臨丸はポーハタン号と比べ、速力が遅かったため3日先行して出航し洋上で落合う予定であった。しかし、ポーハタン号が連日の荒天による破損著しく、ハワイに寄港し、修理を行ったため、咸臨丸は単独航海となり、1860年3月17日(安政7年2月26日)、サンフランシスコに到着し、ポーハタン号は12日遅れて到着となった。

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ポーハタン号

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これがポーハタン号と咸臨丸の航路である。

アメリカ人の助けを受けながら横断したと前述したが実際は、咸臨丸を操舵していたのはアメリカ人ブルック大尉以下のアメリカ船員で、勝海舟は船酔いがひどく一歩も艦長室から出てこなかったという
で、このアメリカ人船員達は難破したアメリカの測量船クーパー号の船員達でアメリカの帰国するためたまたま横浜から乗船したもので彼らがいなければ太平洋横断は難しかったかもしれない。

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東浦賀の東叶神社の裏山には勝海舟断食後の碑があるが、これは彼が己の船酔いを克服するため?に行なったのではないのでは?とワタクシは思っているのだが・・・

そしてワタクシのご近所には副艦長格であった浜口英幹の邸宅があり、花屋敷と呼ばれていた。

浦賀ドックの遺産紹介ツアーにも参加。これは実は2度目である。前回とはチョット違う説明が聞けた。

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船を固定させるための盤木だが、現在配置されているのは浦賀ドックが最後に修理した東京湾フェリーのものだという。(盤木は船底の形状により毎回配置を変える)

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2003年(平成15年)3月31日 に閉鎖して5年、次第に荒れていく風情はそれはそれで情緒はあるが、ミュージアム・パーク化も含めて早く整備して欲しい、と願う今日この頃である。

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