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2008年3月 8日 (土)

満願寺「春の文化展」

横須賀の中央部に位置する本拠衣笠城の周辺には三浦一族の建立した寺院が点在している。岩戸にある満願寺もそのひとつで、三浦義明(大介)の末子である義連(佐原十郎義連)を開基にしている。

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その満願寺が「春の文化展」を催しており、国の重要文化財である仏像もこの時だけに限り一般公開されているので見に行く。

これが木造菩薩立像
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/bunkazai/kuni02.html
そして木造 不動明王立像である。
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/bunkazai/shi10.html

両像ともに、張りのある頬、切れ長の伏し目がちな眼、引き締まった口元など運慶の特徴を捉えており運慶作といわれているが、衣文ひだが複雑でなく地方的な作風が見られ、運慶の影響を受けた鎌倉地方仏師の制作といわれている。
鎌倉時代初期の東国の武士たちが、いかに運慶様式の像を好んだかを物語る貴重な資料である

そして、佐原十郎義連といえば有名なのは一ノ谷の鵯越の逆おとしである。
一ノ谷に立て篭もった平家にたいして、義経はその背後にある崖から奇襲作戦を起てた。しかしその崖に誰もがひるんだ中で、先陣を取ったのは三浦党の佐原十郎義連(よしつら)であった。
「三浦の方で、我等は鳥一つたてても朝夕か様な所をこそ馳せありけ。三浦の方の馬場よ」といってまっさきに駆け下りていき他の者もそれに続いたのである。

そしてその佐原十郎義連の墓が満願寺にある。
実は佐原十郎義連の墓は、三つあるらしい。一つは生地神奈川三浦半島の佐原の万願寺五輪塔と会津在城の地とされる岩尾館の五輪塔と、喜多方市は熱塩加納の半在家の宝きょう印塔である。

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これは満願寺にある佐原十郎義連の墓

そうそう、横須賀と会津との関係は鎌倉時代から江戸幕末に渡っているのである。

これは、佐原十郎義連が文治5年(1189)の奥州合戦での戦功により源頼朝から会津4郡(会津・大沼・河沼・耶摩)を与えられた時から始まるわけで、観応3年(1352)頃に義連の子孫である芦名直盛が会津地域で活躍し、会津を拠点として、(伊達政宗との決戦に敗れるまで)400年にも及ぶ芦名時代を築いたのである。

そして、幕末には幕府は会津藩に江戸湾警備の任務を命じ、命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領となるワケなのだが、今でもその名残がいくつかある。

まず「~だべ」という俗にいわれている横須賀弁だが、これは会津言葉がなまって広まったとも言われている。

そして大津から鴨居周辺に会津藩士の墓が多く見られる。
会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられた。そして、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上ある。

また、中央駅近くには若松町という地名があるがこれも会津若松からきている。
鴨居にある高橋家が会津藩御用達として会津若松の「若松屋」の屋号を拝していて、その後の明治12年にこの高橋家が今の市内米ケ浜一帯を埋立て屋号の若松から若松町と命名した。

幕末から明治維新にかけて波乱の時代に翻弄され悲劇的な結末をむかえた会津若松に親近感を感じ、また、説法で和尚が語った「悲しきことも うきことも 如来のこころなり」という言葉が印象に残った今日この頃である。

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