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2008年1月27日 (日)

中島三郎助まつり、そして浦賀のあれこれ

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幕末の浦賀港に来航した「黒船」に乗り込んでペリーと折衝し、のちに造船技師として活躍した幕臣、中島三郎助(1821~69)をたたえる「第4回中島三郎助まつり」が浦賀の住友重工浦賀工場跡地で催された。

ワタクシは横須賀市民ながら中島三郎助は知ってはいるが、それほどの愛着はない、しかし浦賀の人々の間ではおらが街の偉人であり、子供の時から慣れ親しんできたお方である。

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旧機関工場内ではコンサートやら模擬店で大勢の人達で賑わっていた。

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で、これが黒船シチュー&パン(200円)である。

浦賀周辺史跡ツアーにも参加し、浦賀の歴史を改めて復習する。
今でこそ浦賀はチョット寂れてしまったが、江戸時代までは三浦半島で一番栄えた町だったのである。
江戸時代初期から干鰯(ほしか)問屋や廻船問屋の港町として、また奉行所が伊豆の下田から移り東京に出入りする船が必ず寄港するようになり隆盛を極めたのである。

江戸時代、近畿地方を中心に綿作が発達し、その最適な肥料が干鰯であり、浦賀の干鰯問屋がほぼ独占していたという。水揚げされた鰯はプレスされ油を搾り出し、一番安価な灯油として江戸に出荷、その絞りカスが干鰯である。当時は干鰯一俵は一両で米の一俵より高かったという。

この干鰯問屋は東浦賀にあり、廻船問屋は西浦賀にあった。というよりは当初奉行所を東浦賀に設置しようとしたところ干鰯問屋の反対にあい、しぶしぶ西浦賀に置かざるを得なくなりそれに伴い廻船問屋が置かれたようである。
廻船問屋の主な仕事は浦賀奉行所の下請機関で、奉行所の実務は廻船問屋が行なっていた。

中島三郎助は楽幕府の与力である。ちなみに与力は騎馬武者で数え方は一騎、二騎と数え、奉行所の与力一騎には、同心が6人位付いたという。
中島三郎助や浦賀の歴史は郷土資料館(浦賀文化センター)で詳しく知ることができる。

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また、浦賀ドックの遺産紹介ツアーにも参加し、興味深い話を聞けた。
浦賀ドックは川間ドックと共に煉瓦造で築造されたドックで全国を探してもこれ2基のみという大変貴重なものである。
川間ドックは旧石川島造船所の所有だったが、後に浦賀船渠(株)に買収された。現在はVelasis Ciry Marina という名前のマリーナの中にあり、ゲートが撤去され海水に満たされその全容は見ることはできない)

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ドック内のレンガは伝統のフランス積みである。

浦賀ドックは長さ178m、幅21m、高さ11mで、海水を注水するのも、配水するのも標準で4時間だという。
もっとも、配水時は船の体積分は除かれるワケで、船の排水量によっても差異はあった。
また、配水時の潮位でも違い、干潮時と満潮時は1.5mほど違うので当然この分は排水時間は違う。

このドックでは船の形状にもよるが1万5千トンクラスまで対応できたという。

ドックゲートはどのように開閉するのか今までに疑問だったが、その開閉方法がシンプルでビックリ!
ドックゲートは外側、つまり海側に重心が設定されて作られている。従って、ドック内に海水を注水し、潮位と同レベルになると外部と内部の水圧が同じになるとゲートの重心が海側にあるので自然とゲートが開くという。
閉めるときには両側のワイヤーで引っ張り、ドックゲートを閉める。そして海水を配水し、外部(海)の水圧により押されて密閉される。

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ドックゲートの上部

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で、これが盤木(ばんぎ)で、海水を排水すると船はこの上に載るワケで、この盤木の配置に苦労したという。
修繕する船の設計図を事前に入手し、船体の形状や荷重分布を考えてこの盤木の位置を決定するのである。
なんでも護衛艦などは船底にいろいろな突起物があり苦労し、また、日本丸も帆船ならではのキールが船底にあり、盤木の位置や盤木の材質にも配慮したという。

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これが排水ポンプ室の内部である。
施設の構造は明治時代から変わらない。ここも煉瓦造で築造された。
しかし、現在のポンプは電動で、明治時代は蒸気タービンのポンプであった。

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そしてこれが浦賀警察脇にある「大衆帰本塚の碑」である、
碑材には箱根産の根府川石が使われ、元治元年(1864)9月に建てられました。この地が開発される前の様子と無縁仏を供養する思いなどが記されている。そして、碑文には浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれている。
江戸時代はこの周辺は今の浦賀と違い町の外れであり、墓地や遊廓があった。
この「大衆帰本塚の碑」も元々はもっと山側にあったが、開発により現在の場所に移転された。
そして、浦賀警察の先に遊廓があったとされる。

浦賀で遊廓といえば江戸屋半五郎が有名である。かれは世の無常を知り芸妓、娼婦を解放し、霊場をめぐったという。そして西叶神社の手洗い石などを残している。

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これがその手洗い石で江戸屋半五郎の名が刻まれている。

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また西叶神社の灯篭の足元にも江戸屋半五郎にあやかり?遊廓の主人の名が刻まれている。

浦賀は江戸時代、三浦半島の殆んどの村が小さな漁村であったのに対して、相模の国では小田原と共に栄えた唯一の町である。
浦賀の繁栄の名残がまだ残っている西浦賀地区は歩くたびに新しい発見がある温故知新の街なのである。

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